「捩じれた自虐史観」⑩

2013-06-05 05:26:19 | 「捩じれた自虐史観」



      「捩じれた自虐史観」⑩


 この記事を書く前に、司馬遼太郎が講演した話を文章に起した「

昭和という国家」という本を読んで、少し閃いたのでパソコンの前

に座りました。司馬遼太郎という人は、江戸時代を殊更持ち上げる

のです。幕藩体制の下でそれぞれの藩は独自の地域文化が育まれ個

性的な人物が生まれ、明治維新は彼らの活躍によって成し遂げるこ

とができた、と言うのです。つまり、江戸時代には近代国家へ転換

するための下地が生まれていた。だからこそアジアに於いてわが国

だけが欧米列強の植民地支配を免れることができた。近代文明は近

代国家の下でなければ発展しません。そして、近代国家とは国民が

国家意識を持っていなければなりません。きっと、江戸時代にはす

でに国家意識が育まれていたに違いないと思って調べてみると、丸

山真男の「日本政治思想史研究」を読むと、封建的身分制度に縛ら

れた民衆に国民意識などなかったし、何よりまず為政者が民衆に政

治意識が芽生えることを怖れた。つまり、「由らしむべし、知らし

むべからず」である。私は「あれ?」と思った。江戸時代の社会に

対する見方でも随分ちがうもんだなあ、と思った。もっとも、歴史

小説家である司馬遼太郎は、主人公という特定の人物を取り上げて

話を進めなければならないから社会全般を取り上げる政治学者と認

識を違えるのは不思議ではないが、それにしてもイメージが違いす

ぎる。その時に「⑨」でも引用した小林秀雄の「歴史とはつまると

ころ思い出だ」という言葉を思い出した。つまり、同じ時代を見て

も人それぞれの「思い出」を語っているにすぎない。それは何も過

去に限らず今を語るにしても、国民の多くが社会格差に苦しむ暗い

時代だと見るかもしれないし、逆にアベノミクスに注目してやっと

景気が回復して明るさが見え始めたと言う者もいるだろう。もっと

分り易い例を言えば、原発事故はすでに収束したとして再稼働を求

める人も居れば、住み慣れた土地を追われて何一つ解決していない

と訴える人も居る。更に極端な例を挙げれば、殺人者と被害者に代

わる家族は事件の「思い出」を共有することなどできるだろうか?

ただ、加害者がどれほど悔いても、また、被害者家族がどれほど恨

んでも「歴史的事実」は変わらない。では、加害者と被害者が悔恨

を解いて事件の「思い出」を共有するためにはいったい何が必要な

のか。ドストエフスキーは、神による救済の他にないと言った。ま

たそれほど深刻で事態でないにしろ、考えの違いによる対立は男女

間でも頻繁に起こる。「思い出」を共有してきた二人の間に思いを

違える事態が起こり不信が生まれ立場が分かれる。そして対話が失

われ誤解が重なる。何れの場合にしろ、対立する当事者は自分の立

場に固執して相手の意見は耳に届かず「思い出」を共有するための

対話が閉ざされる。しかし、二人の間で生まれた二つの意見を一つ

にするためには対話は欠かせない。たとえ一つに纏まらないにして

も対話そのものが二人の「思い出」となる。それは新たな「思い出」

の共有であり、それは頑なな考えを解してくれる。たぶん、われわ

れが対立を解消できない多くの原因は、ただ自分の意見に固執して

相手の意見を受け付けずに対話自体を拒むことから生まれる。経済

問題や原発問題、さらに殺人事件に到るまで、意見の対立する当事

者による話し合いがほとんど持たれずに、つまり、「思い出」を共有

せずに採決される。

 われわれは、自分の立場からの考えしか語れないと言うことを自

覚しなければならない。事態をどう捉えるかはそれぞれの置かれた

立場に依るとすれば、対立する立場の者同士が認識を共有すること

は困難なことである。旧日本軍に騙されて慰安婦にされたと固く信

じている老女やその支援者たちに、旧日本軍は直接係わっていない

ということをどうして理解させることができるだろうか?老女が慰

安婦にされ辱しめられたと言う事実と旧日本軍の侵攻は無関係であ

るとまでは言えない。現に彼女は日本兵の慰みにされたと語ってい

る。感情的な対立と誤解が泥縄のように糾って解くことができない

なら、まずは感情を治めるため話し合いをすることしかない。話を

聴かないかぎり解り合うことはできないのだから。われわれは、事

実に感情を絡めて抗議する人々に対して感情だけで応酬することだ

けは厳に慎まなければならない。それは、忌わしい「思い出」しか

残らないから。

 実は、始めに書いたように司馬遼太郎の「昭和という国家」を読

んで閃いたんです。ところが、どうも感情に導かれて道を誤ってし

まいました。もう一度その閃きへの道を探ろうと思います。それは、

近代文明は国民意識を持った人々による近代国家の下で発展すると

すれば、「近代の超克」とは「国家の超克」ではないか、と思った

んです。つまり、「脱国家主義」こそが新しい時代の流れではない

かと思ったんです。実際、すでに世界経済はグローバル化して国家

の壁を越えてしまいました。EUでは経済だけでなく政治の壁もな

くそうとしています。やがて国家が由っていた民族や領土や権力さ

えも幻想だったと思える日が来るに違いない。そして、ついには国

家に拘ることは国家エゴイズムとして非難される。たとえば、「T

PP」構想とはその端緒の現れではないだろうか。グローバリズム

(汎地球主義)は地球環境問題によって大きく進むに違いない。なん

だかナショナリズムに固執する人の意見を聴いていると料簡の狭量

な人物に思えて仕方ない。

 始めに言いたかったことはたったこれだけだったのに、なぜか国

家史観を長々と語る破目になってしまった。要するに、国家などと

いう古いカテゴリーの柵(しがらみ)は後腐れなくさっさと「けり」

つけて、未だ「近代」に拘る近隣諸国を置き去りにして、新しい世

界に向かうべきではないだろうか。


                                  (おわり)