「捩じれた自虐史観」④
「③」で見たように、欧米列強が開国(植民地化)を迫って、近隣
諸国はすでにその植民地支配を受ける中、わが国だけが免れたのは、
ただ孫文などは、日本が結んだ安政条約は不平等条約だったので、
日本も同じように欧米列強の植民地だったと言ってますが、いわゆ
る居留地に住む外国人に対してわが国の法も行政権も及ばなかった
からですが、しかし、それも近隣諸国より先んじて改正(1894年)
させ独立国となった。こうして列強支配を免れたのは、近隣諸国と
比べて、幕藩体制の下で統一支配されていたことが国家意識を芽生
えさせたのではないだろうか。しかし、丸山真男氏の著書「日本政
治思想史研究」によると、ペリーが浦賀沖に現れるまでの徳川幕藩
体制の下で国家意識などというのは生まれなかったと書いている。
では、どうしてわが国だけが列強の植民地支配を免れたることがで
きたのか、それどころか日本はやがて欧米列強に続いて近隣諸国を
植民地化するまでに近代化を成し遂げた。同じ儒教国家である中韓
とわが国はいったい何が違っていたのか?私がそこに拘るのは、そ
の違いこそが対立を生む決定的な違いではないかと思うからです。
ただ、今はまだその結論を得てないのでまた別の機会に考えますが、
しかし、近代化は近代国家の下にしか根付かないし、ところが、
日本だけは伝統文化を棄てて何とか近代化を果たすことができた。
それは日本が近代国家へ転換しうる国家意識を徳川時代に育んで
いたからではないかと思った。
そして、われわれの西洋文明に対するコンプレックスは、欧米列
強に追い着いたと錯覚して増長し、それまで大陸からの文化に倣っ
ていたわが国は、彼らが抗いもせずに、一応、アヘン戦争は戦った
が近代兵器に圧倒されて諦めてしまった。いとも容易く欧米列強に
侵略される様を見て、尊敬の想いが剥がれ落ちて東洋文化を見限
った。その後、日清、日露戦争を勝利した日本国民は富国強兵を果
たし、背伸びをして「一等国」として振舞おうとするが、欧米列強には
何もかもが借り物の衣装の下の足元の草鞋が見えていた。
(つづく)