「捩じれた自虐史観」⑨
自虐性(マゾヒズム)であれ 嗜虐性(サディズム)であれ、実は、
同じ感情の根っこで繋がっていて左に行くか右に行くかの違いでし
かない。行き詰るとあっさり転化する。真実は一つだ、と言うので
あれば歴史を語るのに自虐性や嗜虐性と言った性向の入り込む余地
はないはずだ。「小林秀雄は、歴史とはつまるところ思い出だとい
う考えをしばしばのべている。」(丸山真男著『日本の思想』) 思
い出であるならそれぞれの印象によって事実が異なるのかもしれな
いが、そもそも、南京大虐殺も従軍慰安婦問題も日本軍による侵略
の事実がなければ起きなかったとすれば、その非を認めて謝罪する
態度を「自虐的」であると言うのは的外れである。つまり、自虐的
でない罪の意識などあるわけがない。他人の庭に干してある洗濯物
が風に飛ばされて足下に落ち、親切心からそれを届けようとして敷
地内に入ると、ちょうど家の人が出て来て、女性の下着を手にして
いた私を怪しまれても仕方がないように、或いは、友だちがやって
きて、散らかっている私の部屋を見兼ねて親切心から片付けてくれ
たとしても、たとえそれが同居人であったとしても私は許せないよ
うに、やれ鉄道を敷いてやっただとか、やれ町をきれいにしてやっ
ただとか、自分たちの恩ばかりを押し付けて彼らの誇りを蔑ろにし
た侵略者による施しほど腹立たしいものはない。つまり、われわれ
が彼らに「してやった」ことは、彼らがわれわれから「されたくな
い」ことであるという逆感情をまったく理解できない「独善史観」
に染まったこの国のお目出度いナショナリストたちの鈍感さには呆
れ返る。
(つづく)