「無題」
(十七)―⑥
黙って聴いていたガカが箸を休めて話しだした。
「さっきの海に浮かんだ船の話だけど、・・・」
その時、バロックが消灯された廊下の方を見て、
「あ、誰か来た」
と言った。すると闇の中から一人の男が現れた。ガカは振り向いて、
「あれっ、佐藤さん、どうかしましたか?」
と言って立ち上がった。その初老の男は白髪で銀縁のメガネを掛け
紺の作務衣を纏っていた。
「いやいや、ジャマをして申し訳ない、どうも寝れないので。へへ
へっ、眠り薬でもあればと思ってね」
ガカは、
「いい時に来ました、席が空きましたからここに座りませんか?」
と、ゆーさんが抜けた席を勧めた。その男性は、
「でも、ご迷惑でしょ?」
と言ったが、「3・11」以後は誰もが他人と繋がることを求めて
いた。不安の共有から共通のテーマが生まれて見知らぬ者同士であ
っても震災の話題が他人との仲を取り持った。他人の体験を聴くこと
で自分の不安を慰めるしかなかったからだ。バロックが、
「どうぞ、遠慮なさらずに」
と言うと、ガカに温めのお銚子を注文して腰を下ろした。そして、
「佐藤と言います。ここで読書と温泉三昧してます。どうぞよろし
く」
ガカが彼にバロックとわたしを紹介してくれた。
「佐藤さんはもしかして福島の方ですか?」
わたしが訊くと彼は、
「ええ、浜通りです」
「じゃあ、大変でしたでしょ」
「・・・」
「避難地域なんですか?」
「ええ、まあ」
彼があまり語ろうとしなかったのと、被災地で見た惨状を思い
出してそれ以上は訊けなかった。ガカは、彼に焼けたばかりの
「しんごろう」を皿に取って進めると、
「もうそんなに気を使わないでください。ただ、薬だけもらえれば
それで充分なんですから」
といって、仕方なく受け取りながら、
「じゃあこれ、私の方にチェックしておいて下さい」
と、お銚子と「いかにんじん」を持ってきたサッチャンに言った。
すると、サッチャンは、
「このお通しはサービスですので」
と言うと、彼は笑いながら礼を言った。バロックが地酒のグラスを
傾けながらガカの方を見て、
「な、さっきの話なんだっけ?」
「えっ、さっきの話って?」
「ほら、海と船の話」
「ああ、あれね」
と言ったきり先を続けなかった。佐藤さんはわたしにガカが紹介し
たことを訊ねた。
「それじゃあ、あす東京へ帰られるんですか?」
わたしは、
「ええ、本当は今日帰るつもりだったんですが」
「そうなんですか。で、ご実家は無事だったですか?」
「ええ、おかげさまで」
「そうですか、それは何よりでした」
わたしは、彼の住まいのことを問い返そうとしたが躊躇った。彼が
お猪口に酒を注いで甞めている間、誰もが口をことばを吐くこと以
外のために使った。人は人と一緒に食事をすることで、旨いものと
一緒に相手の言葉も呑み込んで打ち解けることができるのかもしれ
ない。自然と相手が喰えない話はしなくなる。そして思い出の共有が
生まれる。しばらくして、ガカが思い出したように箸を置いて、
「たとえば、海の上の船は沈没したとしても、人間は船の上でなけ
れば生きていけないのだから、自然に還ることは無理だと思う」
わたしは、自分の言ったことが蒸し返されたので、
「もちろんそうですよ」
と、口の中にあるものを呑み込まないまま答えた。すると、ことばと
一緒に食いかけの「しんじろう」の欠片を吹き飛ばしてしまった。
(つづく)