「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-2
ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで-2
「力への意志」が本質存在だとすれば、「同じものの永遠なる回帰
の思想」は事実存在ということになります。たとえば、私という存
在は事実存在ですが、やがて死んでしまえば私を形成する分子は私
から離れてバラバラになり、私という生命体は存在しなくなります
。本質存在とは永遠不変のものであるとすれば、生命体としていず
れ消滅する私は本質存在ではありません。しかし、そもそも「存在
とは何であるか?」と問うこと自体が存在の本質を問うことに他あ
りません。形而上学(Metaphysik)の《-physik》とはギリシャ語の
《存在者として自ずから存立し臨在している存在者》という意味の
《自然的なるもの》で《Meta-》はそれを超え出るという意味で、
では《存在者を超え出て》何処へ出て行くのかといえば、本質存在
へということになります。本質存在とは分り易く言えば「神の存在
」を思い浮かべばいいかと思います。こうして形而上学はプラトン
のイデア、中世ではキリスト教の神、近代では理性、おそらく近未
来にはAI(人工知能)が担うことになるでしょう。しかしニーチェ
はプラトン・アリストテレス以来の形而上学を逆転させました。そ
れまで本質存在が優位であった形而上学を否定して、「神は死んだ」
、事実存在である生成としての存在者のための哲学を思惟しました。
つまりニーチェが最後の西欧形而学者と言われる所以です。
有史以来、われわれが哲学的思惟に耽るのは、いずれ死んでしま
うからに他なりません。死によってすべて失われてしまうのであれ
ば辛い思いをして生きることはまったく報われないことではないか
。ロマンロランはジャン・クリストフにこう言わせました。「わた
くしがなにをし、どこへ行こうとも、終わりはつねに同じではない
でしょうか、最後はどうしたってあそこにあるのではないでしょう
か?」(ロマン・ロラン著「ジャンクリストフ」) 有限の生とは処
刑の日を待つ死刑囚のようなものではないか。そして超感性界を喪
失した世界、つまり神の救いを失った世界はたちまちニヒリズムに
陥る。理性によって世界を見直して見ればこれまでの《最高の諸価
値の無価値化》は生きる目標が崩壊した世界でしかない。しかし、
ニーチェは《最高の価値の転換》が起こるのであればニヒリズムへ
の回帰は避けられない言う。それどころか、「私が物語るのは、今
後二世紀の歴史である」と記している。ニーチェが死んだのは19
00年だから、単純に計算して2100年あたりまではニヒリズム
は時代の底流として流れ続けることになる。ハイデッガーは「形而
上学の終末は、決して歴史の終熄を意味するものではない。それは
、《神は死せり》というあの《出来事》との深刻な取り組みの『開
始』である。ニーチェ自身も、自分の哲学を或る新しい時代の開始
の序奏と解している。来るべき世紀、すなわち現在の二十世紀を、
ニーチェは、従来知られているいかなる変革とも比較しえないよう
な変革の続発する時代の開始として予見している。」と記している
。ニーチェの死後、二度の世界大戦があり、そして現在はと言えば
、とても穏やかな時代だとは思えないし、いまも神の名の下に凄惨
な事件が頻発してる。しかも2100年まではまだ百年足らず残っ
ているのだ。そして、理性による存在者の真理の追究は我々を決し
てニヒリズムから救ってはくれないと言う。ニーチェは「真理の畏
敬は、すでにひとつの『幻想』の帰結であるということ」、つまり
「真理とは幻想なり」と言うのだ。
(つづく)