「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-4
ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで-4
ハイデッガーは、ニーチェが書き残した断片から彼の思想を読み
解きます。
「或るものを、持続的に存立する堅固なものという意味において存
在的なりと表象することは、一種の価値定立である。《世界》の真
なるものを、それ自体で持続的に存立している永遠不変なるものへ
持ちあげるということは、とりもなおさず、真理を必然的な生活条
件として生そのもののうちに移すということなのである。しかしな
がら、もしも世界が不断に変遷する無常なものであるとすれば、も
しも世界が過ぎ去りゆく不定なもののもっとも無常なものにこそそ
の本質をもっているのだとすれば、そのときには、持続的に存立す
る堅固なものという意味での真理は、それ自体としては生成しつつ
あるものをたんに固定化して打ち固めたものにすぎず、この固定化
は、生成するものに照らしてみると、これにそぐわないもの、これ
を歪曲するものでしかないだろう。正当なものとしての真なるもの
は、かえって生成に即応しないことになるであろう。そうなると、
真理は、不=正当性であり、誤謬であり――たとえ必然的なものか
も知れないが、やはり一種の《幻想》となるであろう。
こうしてわれわれは、真理とはひとつの幻想であるというあの異
様な箴言がそこから告げられる方向へ、始めて眼を向けることにな
る。だがわれわれは同時に、この箴言においては真理の本質があく
まで正当性という意味で固執されているのを見る。その際、正当性
とは、存在者を、《そんざいしている》ものへの合致という意味で
表象するということを意味している。なぜなら、真理がその本質に
おいて正当性であるからこそ、真理がニーチェの解釈によれば、不
=正当性(Un-richtigkeit)であり、幻想でありうるのだからである
。真理が、持続的に存立する堅固不変なものという意味でのいわゆ
る存在者としての真なるものとして受け取られるならば、その真理
が幻想なりというのは、ほかでもなく世界が存在的なものではなく
《生成的な》世界だからである。認識は真の認識であるかぎり、或
るものを持続的に存立する堅固なものという意味での存在者として
受け取るわけであるが、その真なる認識は、存在者を《当てにして
》いながら、実は現実に的中せず、すなわち生成するものとしての
世界に的中していないのである。」
「ニーチェは真なるもの――すなわち確立され決定され堅固にされ
、この意味で存在しているもの――に対して、生成するものを対置
する。ニーチェは《存在》(Sein)に対して、それより高い価値とし
て、《生成》(Werden)を対置する。われわれはこのことから、さし
当り次の一点を看取する。すなわち真理は最高の価値ではないので
ある。」「なぜなら、それは生の生動性を、生の自己超越の意志と
生成とを否認するからである。生にその固有の生動性を承認して、
生をして生成するものたらしめ、生がたんに存在者として――堅固
に現存するものとして――固定化することのないようにすること、
それが明らかに新しい価値定立の狙いなのであって、これを基準に
すれば真理は格下げされた価値でしかありえないことになる。」
(つづく)