「あほリズム」
(596)
生きることは《手段》に過ぎないとするならば、近代とは《目的
喪失》の時代である。われわれが創り出した科学技術、自動車も、
電気も、医療も、核兵器も、すべて《手段のための手段》でしかない。
(597)
生きることは《手段》に過ぎないとするならば、その《目的》と
はいったい何だろうか?西欧形而上学はさんざん神学論争を経た後
に、形而上学的な思考方法の限界を認識した。存在するかしないか
(神の存在)を思惟によって証明することはできなかった。神の存在
を証明することはできなかったが、その方法論は科学(実存)に応用
されて華々しい成果を上げた。後にニーチェは、プラト二ズム(プラ
トンが説いたイデア論[理想と現実の二世界論])を逆転させ、形而上
学的思考の固定的な結論(絶対性)が変遷流転する生成の世界(相対性)
に的中しないことを説いた。ここでは、我々の認識が変わってしまい
《手段》がいつの間にか《目的》へと変貌する。つまり、生きること
は《目的》に《過ぎない》のだ。
そういった認識の変化から生じる言語矛盾の実例を挙げれば、
「我々は、わが国の平和を守るためなら戦争も辞さない」安倍晋三