「あほリズム」
(597)
生きることは《手段》に過ぎないとするならば、その《目的》と
はいったい何だろうか?西欧形而上学はさんざん神学論争を経た後
に、形而上学的な思考方法の限界を認識した。存在するか否か(神
の存在)を思考によって証明することはできなかった。神の存在を
証明することはできなかったが、その方法論は科学(実存)に応用さ
れて華々しい成果を上げた。後にニーチェは、プラト二ズム(プラト
ンが説いたイデア論[理想と現実の二世界論])を逆転させ、形而上学
的思考の固定的な結論(絶対性)が変遷流転する生成の世界(相対性)
に的中しないことを説いた。ここでは、生成である我々の認識がい
つの間にか変わってしまい《手段》が《目的》へと変貌する。つま
り、生きることは《目的》に《過ぎない》のだ。
そういった認識の変化から生じる言語矛盾の実例を挙げれば、
「我々は、わが国の平和を守るためなら戦争も辞さない」
いつの世も戦争は自国の平和と繁栄を守るために行われる。つま
り、戦争が《手段》であるとすれば、その《目的》は自国の平和な
のだ。