「技術と芸術」
(4)[改稿]
ショウペンハウア―は、我々の認識能力には限界があり、世界全体
を認識することはできず、表象の世界だけしか認識することしかでき
ないので、我々はそれぞれの認識能力に応じた表象としての世界を世
界全体として認識するしかない。つまり、「世界とは私の(認識能力が
創り上げた)表象(の世界)である」。これは何となくわかる。
では、「世界とは私の意志である」とはどういう意味なのか?ここ
で使われている「意志」とはショウペンハウア―独特の言葉で、彼自
身も著書の序文でプラトンとカントだけは読んでおくようにと断りを
しているように、それはプラトンの「イデア」、キリスト教の「神」
、そしてカントの「物自体」と同じように、仮にこの世界が仮象の世
界だとすれば「真の世界」こそがショウペンハウア―の言う世界の「
意志」なのだ。それは沸々と萌え出でて来るカオスであり、我々一人
一人の異なる意志を遡れば彼の言う「意志」に辿り着く。つまり、我
々はそれぞれが自由意志によって生きていると思っていても、しかし
与えられた身体能力には同じように限界があり本能にも束縛され、な
によりもいずれ死ぬ。それらはすべての生命に共通して負わされた生
きるための条件であり、我々の「意志」によってはどうすることもで
きない世界の「意志」なのだ。つまり、「世界とは(「意志」であり)私
の意志(は世界の「意志」と同じ)である」ということであり、「意志と
表象としての世界」とは、「意志」に拘束され仮象(表象)の世界で生き
ることにほかならない。我々の意志は身体に縛られた意志でありそれは
思い通りにならない意志である。「意志」は我々が自由奔放に生きるこ
とを認めない。「意志」はそれぞれを欲望に目覚めさせ競い合わせて、
生きることとは欲望に追い立てられ、その苦しみから逃れることでしか
ないのか?この世界とは苦しみこそが共通する実感ではないか?ショウ
ペンハウア―は苦しみの共感を「共苦」(Mitleid=ミットライト)と呼び、
「共苦」こそが世界の現実だと考えた。それはまさにペシミズムであり、
この世界を「一切皆苦」と説く仏教の世界観にほかならない。
(つづく)