「技術と芸術」 (7)

2020-03-06 12:53:53 | 従って、本来の「ブログ」

         「技術と芸術」

           (7)

ニーチェによると、世界とは《生成》の世界であり、《生成》の世

界とは変遷流転する世界であり、それは《力への意志》によっても

たらされる。《力への意志》とは、変遷流転する生成の世界をもた

らす根源的な《意志》で、たとえば、春になれば植物の新芽が一斉

に萌え出でてくることや、または、我々は思春期を迎えれば異性の

ことが気になってそれまでの世界が一変する。そのような変化は世

界が変わるからではなく、我々の身体が自分の意志とは関係なく変

化するからである。或は、そもそも我々は意志して生れて来た訳で

はないのに、だからといって引き返す意志も思い通りにならないと

いったような、それぞれの意志ではどうすることもならない沸々と

萌え出でる生成としての「意志」であり、この世界のすべての存在

は、もちろん道端に転がっているの石にしても、《力への意志》に

突き動かされて変遷流転を繰り返している。それでは、人間にとっ

て《力への意志》はどう作用するのかといえば、それは《情動》で

あり、《情動》こそが《力への意志》の発達形態であると言う。

さて、では《情動》とは何かといえば「恐怖・驚き・怒り・悲しみ

・喜びなどの感情で、急激で一時的なもの。情緒。」(Goo辞典)と

ある。つまり《情動》とは「急激で一時的な」「感情」である。た

とえば、我々が怒りや喜びを感じるのは大概「急激で一時的」だが、

そして感情に身をまかす時、我々は《我を忘れる》。つまり《情動》

は我々を本来の自分を昂揚させて別の自分へ向かわせる。ところで、

「意志するとは、自分を超えて意志することである」(ニーチェ)とす

れば、《情動》は「意志」と同じように、否、「意志」は《情動》と

同じように自己超越の様相を呈す。ニーチェは、「人間とは、まず思

惟する存在であって、その上になお意志し、そのさい更に思惟と意志

のつけたしとして――美化のためにせよ醜化のためにせよ――感情を

あわせもつ、というような者ではない。そうではなく、感情の状態性

こそ根源的なものであり、思惟と意志もこれに属しているのである」

(ハイデガー『ニーチェ』)と言い、つまり、理性によって規定される

思惟や意志も、その根源は「自分を超えて新しい自分に転化すること

の悦び」の感情、つまり「意志するとは感情(気分の状態)である。」

(〃)というのだ。

 ここでニーチェは驚くべきことを言っている。それは「感情の状態

性こそ根源的なものであり、思惟と意志もこれに属しているのである」

と言うのだ。我々は当然思惟も意志も理性によって規定されると思って

いるが、それらは根源的には感情の状態性に依存していると言うのだ。

たとえば、「正義」について考えてみると、そもそも個人だけだと善悪

は認識できても社会は存在しないのだから社会正義は成り立たない。正

義とは社会的価値であり社会正義のことである。正義が社会的価値であ

るとすれば、正義は社会が変わる度に価値が変わる相対的価値であり、

つまり絶対正義は存在しない。「正義」とは社会的で相対的な価値であ

るならそれを規定するのは社会を構成する個人に委ねられ、そして個人

の価値判断はそれぞれの善悪、否、もっとその根源を遡れば個人の好き

嫌いからもたらされ、その根源は感情にほかならない。

                         (つづく)