「あほリズム」
(652)
宇宙がビッグバーンから膨張して誕生したとすれば、我々の身体
を形成する物質も宇宙の果てで輝いていた星も同じ物質からできて
いる謂わば同じ宇宙内存在である。たとえば、私が放屁をすれば、
その波動は宇宙空間に伝播してわずかではあるが宇宙を揺るがす。
つまり、どれほど乖離していても私と宇宙は同一であり、従って、
宇宙内存在としての私は宇宙を外部から観察することはできない。
「あほリズム」
(652)
宇宙がビッグバーンから膨張して誕生したとすれば、我々の身体
を形成する物質も宇宙の果てで輝いていた星も同じ物質からできて
いる謂わば同じ宇宙内存在である。たとえば、私が放屁をすれば、
その波動は宇宙空間に伝播してわずかではあるが宇宙を揺るがす。
つまり、どれほど乖離していても私と宇宙は同一であり、従って、
宇宙内存在としての私は宇宙を外部から観察することはできない。
「技術と芸術」
(8)
今日では「技術」といえば専ら「科学技術」のことに他ならないが、
そもそも「技術」とはこれまでは目的を遂げるための手段としての道
具を作ったり、或はそれを使ったりする時の「技(わざ)の術(すべ)」
であって、それは人間を人間たらしめている優れた能力に他ならない。
ところが、「科学技術」となると「技術」よりも「科学」の意味合い
の方が強くなって、技術としての能力は道具としての機械に集約され、
われわれはただそのスイッチを押すだけで優れた技術を手に入れるこ
とが出来る。それは「科学」とは「同じ条件の下では誰がやっても同
じ結果が再現される」と定義されることからうかがえる。そして、す
でに近代は技術論ではなく科学論の時代に突入している。たとえば、
原子力エネルギーは科学理論の下で産み出され技術論は何の役にも立
たない。こうして「科学技術」の進化によって技術能力を無用化され
たわれわれは今やAI(人工知能)が社会を支配する時代を迎えようと
している。
われわれは今や技術だけでなく知能までも科学技術に委ねようとし
ているが、そもそもAI(人工知能)とは過去のデータを基にして未来
を予測するシステムであるからAIから何か独創的な思考や技術が生
れて来ることはない。もちろん我々がそれを独創的だと判断すればそ
れまでだが、AI化社会とは、つまり後ろを見ながら後ろ向きに進む
社会であり、気が付けばまた元の場所に戻っていたということになる
。たとえば、それは将棋や碁のようにルールが決まっている世界なら、
いつも同じ展開が繰り返されても気にならないのかもしれないが、お
お、これはまさに「同じものの永遠なる回帰」ではないか、しかし、
生成の世界とはその枠組みやルールが変更されるのだ。過去のデータ
が無意味化した新しい世界ではAIは全く役に立たない。そして、生
成としての人間も常に新しいものを追い求める限り、AIは人間がこ
れから何に新しい価値を見い出すかを予測することはできない。
(つづく)
「あほリズム」
(652)
「近代文明社会」というカテゴリーの余地が残り少なくなって
限界に達した時、世界が二極化するのは必然のように思える。ただ、
どちらにも開けた世界が見えてこない。
残された道は「近代文明社会」というカテゴリーからの逃避以外
に考えられない。つまり、「自然に帰れ!」