「三島由紀夫について思うこと」
先ごろ、1969年5月に東京大学駒場キャンパスで行われた三
島由紀夫と東大全共闘との伝説の討論会の様子の映画が公開されま
したが、おそらくそれは50年を経て著作権が切れたからだと思い
ますが、私はずーっと前にYouTubeに投稿されたそのビデオを観た
覚えがあって、そこでもう一度観ようと捜してみたら多分映画にす
るためなのか削除されていました。ただ、三島由紀夫の小説への関
心がそれほどなかったので、それでも「花ざかりの森」「仮面の告
白」「金閣寺」「午後の曳航」は読んでいましたが、もちろん文章
そのものは描写が繊細で傑出していましたが、やがて「兵隊ごっこ」
を始めた頃から凡そ何が書かれているかは予感できて、そしてそれ
が好きではなかったので敢えて読まなかった。ところが最近になっ
て何度か三島由紀夫の名前を耳にするようになって、たぶんそれは
安倍政権下で改憲論議が盛んに交わされ始めたからで、と言うのも
凡そわが国の保守派が唱える防衛論は三島イズムそのまんまで何も
新しいものはないのですが、たまたま三島由紀夫の父が回想録「倅
、三島由紀夫」の中で彼がニーチェを何度も絶賛していたと語って
いたことを耳にしたことから少し気になり始めました。その程度の
理解で三島由紀夫を語るなと言われればまったくその通りで、まさ
にその程度の理解しかないからに違いないが彼の自決がまったく理
解できなかった。ですから私はここで大上段に構えて「三島由紀夫
論」や「天皇国体論」を批判するつもりはまったくありませんし、
実はそんな情熱が燃え上がってきません。それは、たとえば彼は学
習院高等科を首席で卒業するほどの頭脳明晰であるにもかかわらず、
ビデオの中で東大生にいざ天皇を語るとなると、すこし躊躇いがち
に「論理的ではないが」と前置しながら、「つまり天皇を天皇と諸
君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言っ
てくれないから、いつまでたっても殺す殺すと言っているだけのこ
とさ。それだけさ」(ウィキペディア「三島由紀夫」)と言い、天皇へ
の崇拝を吐露します。天皇とは論理的な存在でないことを認めながら
天皇崇拝を語ります。しかし、肝心な是非は論理ではなく感情に訴え
るのなら意味ないじゃんと思うのですが、論理性を重んじる彼が「国
体とは天皇のことである」と主張する背景には育ってきた環境が大き
く影響したことは間違いありません。たとえば、「プロレタリアート
に国家なし」と言いますが、三島由紀夫の生い立ちはそれとはまった
く正反対に「国家なしには生きられない」官僚一家に育ちました。
三島由紀夫、本名平岡公威(ひらおかきみたけ)は大正14年1月1
4日(1925年)に生まれ、ところが翌年の年末12月25日に大正
天皇が崩御されたために年号が「昭和」に改められ、年末の僅か六日
ばかりが昭和元年となり、翌年昭和2年には彼が満2歳になり、彼の
満年齢と昭和の年数が一致して昭和の時代と共に年を重ねることにな
った。
そもそも官僚一家の始まりは祖父である平岡定太郎(1863年生れ)
から始まる。彼は兵庫県の農家の生まれで、時代が明治へと大きく転
換する中、苦学の末に26才で帝国大学法科大学(東京大学法学部)に入
学し、卒業後は内務省に入省し内務官僚となる。その翌年、幕臣であっ
た永井岩之丞の長女なつと結婚し、やがて三島由紀夫の父平岡梓を授か
る。彼もまた東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に1番で合格する
ほど秀でていた。その妻倭文重(しずえ)は漢学者橋健三の次女でのちに
長男公威(三島由紀夫)の文才に気付くと協力を惜しまなかった。
生まれたばかりの公威(三島由紀夫)は、「赤ん坊に2階は危い」と
いう理由で、姑であるなつが坐骨神経痛を病む病室内で養育すること
になり、母倭文重が我が子と接することが出来るのは授乳の時や、許
された僅かな散歩の時間だけとなってしまった。こうした、父母と引
き離された生活は彼が学習院中等科に入るまで続いた。彼は、小学生
の頃より祖母の好きな歌舞伎や能、泉鏡花などの小説に親しみ、高学
年になると学習院の同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表するよ
うになっていた。(ウィキペディア「三島由紀夫」より抜粋)
(つづく)