「三島由紀夫について思うこ」
(2)
三島由紀夫、本名平岡公威(1925年生れ)が生れた時代は、
そのすこし前には4年以上にも及んだ第一次世界大戦が終結(1
918年)したばかりで、それは「ジェノサイドの犠牲者を含た
戦闘員900万人以上と非戦闘員700万人以上が死亡した。」(ウィ
キペディア「第一次世界戦争」) しかもその最中にスペイン風邪
のパンデミック(1918年1月から1920年12月)が発生し、
感染による全世界の死亡者数は4000万人以上と推測され(W
HO)、一方、日本では関東大震災(1923年)が発生して「死者
・行方不明10万5千人あまり」(ウィキペディア「関東大震災」
)が犠牲になって、国内外ともに混乱の真っ只中に、さらに追い
打ちをかけるように世界恐慌(1929年)が起こった。それは当
然日本経済にも深刻な影響を与えて、特に農村ではデフレ政策な
どによる米価下落とその後にも冷害による凶作から疲弊して娘の
身売りや一家離散が絶えなかった。そして不況を克服するために
満州事変を起こし、政治対立から政情不安になり、暗殺事件が横
行した。
私は以前に当ブログに「順逆不二の論理――北一輝」(2)で「
今の混迷の時代がその頃と重なって見えて仕方がない。」と述べ
たが、今日ではさらにウイルス感染のパンデミックまでもが重な
った。https://blog.goo.ne.jp/wser8ucks4atwg/e/35fd6a726506a30598796dd54500737b
つまり三島由紀夫こと平岡公威が生れた時代は、第一次世界大戦、
スペイン風邪のパンデミック、関東大震災、世界恐慌、満州事変、
暗殺の横行、さらには第二次世界大戦へと続く、人が不慮の中に死
ぬことが今日よりも当たり前の世の中だった。そして彼自身も5歳
の時に自家中毒に罹り死の一歩手前まで行き、さらに妹の美津子は
終戦すぐの疎開先で腸チフスに罹って17歳で死んだ。可愛がって
いた妹の死に公威は号泣したと言う。
そして、彼が学習院初等科6年の冬、1936年2月26日未明、
「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げる皇道派青年将校らに率いられた兵
士1483名の軍靴が首都東京の市街地に降り積もった雪を踏み固
めた。所謂「二・二六事件」である。それは、少年公威の正義心と
何よりも視覚に忘れることのできない印象を刻印した。
(つづく)