「二元論」
(3)のつづきの続き
そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて
いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ
るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか
?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ
されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる
もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う
者は当然その答えの意味を理解できる者でなければならない。そう
でないと、問いかける人間の理解能力を超えた《存在》の意味は理
解され得ない。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に
問うことの意味は規定される。人間にとっての《存在》の意味は人
間の理解能力が受け入れられるものでなければ意味をなさない。も
しも、《存在の意味》がどれほど真実だとしても、人間がその意味
を理解する能力を持っていないとすれば「無意味」である。だとす
れば、「《存在》とは何であるか?」を問うことは、『人間にとっ
ての』「《存在》とは何であるか?」』を問うことにほかならない。
つまり、その答えがどうであれ人間が《存在》をどう理解するかに
よって《存在》の意味は変わることになる。ハイデガーは「現存在
(人間)が存在を了解する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「
前期のハイデガーは〈現存在(人間)が存在了解を規定する〉と考えて
いた、と言ってよいかもしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)
と述べている。ところで、〈人間が存在了解を規定する〉ということ
は、人間が世界を作り変えてもいいことになる。
(つづく)