「二元論」(3)のまとめ

2021-02-26 02:02:53 | 「二元論」

          「二元論」

           (3)のまとめ


 哲学者ハイデガーの研究者として知られる故木田元氏(1928

年~2014年)によると、ハイデガーは自著「存在と時間」の上

巻を刊行した後に思想的転回(ケ―レ)を余儀なくされて予定されて

いた下巻の刊行を取り止めた。私はそれまでニーチェのアフォリズ

ムを暇つぶし程度に読んでいたが、しかしハイデガーにはあまり良

い印象を持っていなかったことから、それはもちろん彼がナチスの

支持者であったからで、ところが、木田氏が著した「ハイデガーの

思想」を読んでハイデガーによる「ニーチェ」の講義が書籍化され

ていることを知って、また木田氏があまりにも絶賛するので取り寄

せて読んだ。実際、これはすごかった。あのニーチェが一足飛びで

駆った抽象概念の足跡を丁寧に解説しながら辿ってニーチェについ

てこれほどまでにも判り易く書かれた本はなかった。そして、あの

難解なハイデガーの言語を見事に和訳してみせた細谷貞雄氏をはじ

めとする翻訳家の人々を称えない訳にはいかない。ただ、なるほど

これほどまでもニーチェ思想の影響を受けた者だからこそナチスの

過激思想に加担することにもさしたる疑いを抱かなかったのかもし

れない。その木田元氏の「ハイデガーの思想」によると、ハイデガ

ーの思想的転回(ケ―レ)の原因は《存在》そのものの捉え方(存在了

解)を改めざるを得なかったからだと言うのだ。

 木田元氏は著書「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で

ハイデガーが思想的転回を余儀なくされた経緯を推察して書いて

いますが、そこでは、「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえら

せ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、あそらくは〈存在

=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成する

ものとして見るような自然観を復権することによって、明らかにゆ

きづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化をくつがえ

そうと企てていたのである。」これだけ読むとりっぱな文明批判で

自然に帰れと言ってるとしか思えないですが、いくつか補足すると

、科学技術は「自然は制作のための単なる〈材料・質料〉」と看做

し、「〈存在=現前性=被制作性〉というアリストテレス以来の伝

統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性を場と

しておこなわれる存在了解に由来する。」つまり、われわれが自然

と向き合う時に、われわれは本来的な時間性の場である「自然=内

=存在」として存在するのか、それとも「自然は制作のための単な

る〈材料・質料〉」としか扱われないとすれば、われわれは非本来

的な時間性を場とする自然の外へ一歩踏み出すことになる。

 そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて

いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ

るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか

?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ

されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる

もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う

者は当然その意味を理解できる能力のある存在でなければならない

。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に問うことの意

味は規定される。だとすれば、「《存在》とは何であるか?」を問

うことは、『人間にとっての』「《存在》とは何であるか?」』を

問うことにほかならない。つまり、その意味がどうであれ、人間の

理解能力によって《存在》の意味は変わることになる。そこで、ま

ずハイデガーは、「存在とは何か?」を問う「人間とは何か?」を

現象学的に分析しようとする。彼は、「現存在(人間)が存在を了解

する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「前期のハイデガー

は〈現存在が存在了解を規定する〉と考えていた、と言ってよいか

もしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)と述べている。とこ

ろで、〈人間が存在了解を規定する〉とすれば、当然人間が人間の

ために世界を作り変えることは許されることになる。

 ところで、私もこれまで幾度か使いましたが、ハイデガーは人間

という言葉を避けて「現存在(Dasein)」と言い換えます。それは、お

そらく生きている人間はいまは「存在している」が、いずれ死ん

で存在しなくなるからだと思います。そもそもハイデガーは、現象学

的存在論として「存在と時間」を書き始めましたが、上に述べたよう

に、まず、その準備として「問いかけられている」現存在とは「何で

あるか?」を確認するために「現存在の準備的な基礎分析」及び「現

存在と時間性」を発表したあと、それだけで優に1000ページはあ

るが、続刊が予定されていた本論である存在論は出版されずに終わっ

た。そのため「存在と時間」は当時隆興してきた実存論と誤解された

が、彼は存在論だと主張している。

 では、「存在とは何であるか?」を思惟する現存在とは何である

かといえば、現存在を規定する絶対的な現象は「死」であり、「死」

は現存在の存在の限界を意味します。自らが限られた存在でしかな

いことを認識した現存在は現前の俗事に流されるだけの「頽落」し

た生活を改めて存在することの本来性、つまり「先駆的覚悟性」(ハ

イデガー) に目覚め、それは「死」がもたらす限られた《時間性》(テ

ンポラリテ―ト)によって現存在を本来性へと覚醒させる。こうして、

現存在の存在は限られた「時間」を場とする《時間性》(テンポラリテ

―ト)へと還元される。つまり、「テンポラリテ―ト」とはあくまでも

現存在に関わる概念にほかならない。

                        (つづく)