「二元論」
(4)
ハイデガーの存在論について私が理解したことを難解な哲学用
語を使わずにわかり易く述べようと思います。
そもそも「なぜ世界は《ある》のか?」と問うのは理性を進化
させた人間だけで、その他の生き物たちは世界の中で自らの本能
に従って迷わずに生きています。そこでハイデガーは、まず「な
ぜ世界は《ある》のか?」と問う人間とは何であるか?を問いま
す。何故なら、人間とは何であるかが分っていないと、その人間
が求める真理には的中しないかもしれないからだ。たとえば、か
つては神の存在を誰もが信じて疑わなかったが、いまでは多くの
人がそれは非科学的であると思っている。つまり、時代とともに
人間がどう考えるかによって世界への認識は移り変わる。だとす
れば、「なぜ世界は《ある》のあるか?」の回答は、それを問う
人間の自問自答にすぎないことになる。つまり、「人間とは何か
?」を問うことは「世界とは何か?」を問うことにほかならない
のだ。さて、その人間にとって決定的なできごとと言えば「死」
であり、そして人間はそれを認識しています。やがて、または突
然に、自分自身が消滅することを受け入れられない現実が「世界
とは何であるのか?」と問うことの始まりに違いありません。「
死」は人間に世界とは無常であることを宣告します。だとすれば、
われわれは限られた存在であり、限られた存在とは限られた「時
間」だと言い換えることができます。ハイデガーの主著「存在と
時間」の時間とは限られた時間しか存在し得ない人間のことです。
そもそも、存在も時間も限られているから認識できるのですが、
つまり「存在と時間」を小難しい哲学言語を排して口語に言い換
えると「世界と私」ということになります。では、限られた存在
であり限られた時間しか生きられない人間が、無限で永遠の世界
の中から「世界とは何であるか?」を問うたとしても世界全体を
外の視点から認識することはできない。そこでハイデガーは、世
界の中からでしか世界を認識できない人間を「世界=内=存在」
と呼びます。「世界=内=存在」とは世界の中で現われてやがて
世界の中で消えていく人間のことです。
(つづく)