「時間は存在しない」のつづき
ハイデガーは「現存在が存在するかぎりでのみ、存在は《ある》
」と言い、現存在とは人間のことなので、逆にすると、人間が存在
しなければ人間以外に存在について問う存在者など居ないから 存在
という概念すら《ない》ということになる。つまり、「存在とは何
か?」という問いはすぐれて人間だけが発する問いであって、その
答えは人間が了解できるものでなけれなれば意味がない。科学的真
理がどれほど「時間は存在しない」と結論したとしても、たとえば
科学が神を否定しても、どれほど科学による世界認識が拡がっても
その限界の向こうには依然として無限に広がる神の領域が残されて
いるのだ。つまり「人間が存在するかぎりでのみ、神は《ある》」
のだ。「存在とは時間である」のか、それとも「時間は存在しない」
のかは、何れ存在しなくなる人間的視点による了解なのか、それと
も時間を超越した科学的視点からの認識なのかによって見え方は異
なる。われわれ時限的存在である人間にとっては目の前にある世界
こそが全てであって、その時には生きていない世界の始まりや終わ
りの科学的真理には関心はあったとしてもどうすることもできない。
つまり、われわれが問う《存在》とはわれわれの時間性に切り取ら
れた《存在》の意味であり、それは、神と科学が両立するように、
形而上学的思惟と科学的認識は重ならない。
(つづく)