まだまだ「時間は存在しない」
人間とは、何も知らずに産み落とされて(被企投性)、果たして「
存在とは何であるか?」と自問し、やがて「存在を了解して」現存
在としての自らの時間性に自分自身を《企投》する、《存在了解》
とはそういう意味だろう。しかし、いずれ自分自身の死を認識した
人間は自らの本来的時間性に立ち返って、それは「もはやその先に
はいかなる可能性も残されていない究極の可能性にまで先駆けてそ
れに覚悟をさだめ、その上でおのれの過去を引き受けなおし、現在
の状況を生きるといったようなぐあいにおのれを時間化するのが本
来的時間性であり」(木田元『ハイデガーの思想』)、そこで「ハイデ
ガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな
存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう
一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権することに
よって、明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主
義的文化をくつがえそうと企てていたのである。」「そして、おそら
くこれがハイデガーをナチスの文化革命に近づけたにちがいないであ
る」(同書より)。 私は、そもそもこの本(木田元『ハイデガーの思想
』)を読むまでは、ハイデガーについてかくも長きに亘って引っ張られ
るとは思っていなかったが、しかし、今まさに現代のわれわれが抱え
る環境問題を百年も前から予言していたことに驚かされた。
(つづく)