「あほリズム」
(834)
「東京電力」福島原子力発電所の事故による除染土の県外の最終
処分地は、話し合うまでもなく、その恩恵に浴してきた東京以外に
あり得ない。もしも東京が「電化生活」の豊かさだけを享受して事
故の賠償を金銭だけで済ませようとするならば、この国の社会正義
は著しく不公平化する。
「あほリズム」
(834)
「東京電力」福島原子力発電所の事故による除染土の県外の最終
処分地は、話し合うまでもなく、その恩恵に浴してきた東京以外に
あり得ない。もしも東京が「電化生活」の豊かさだけを享受して事
故の賠償を金銭だけで済ませようとするならば、この国の社会正義
は著しく不公平化する。
「二元論」
(9)のつづき
ハイデガーによれば、「形而上学(meta-physics)」とは古代ギリ
シャで生まれ、その後西欧社会だけにしか拡がらなかった学問で
あって、だから「西洋哲学」という言葉は同語反復であるとまで言
うのですが、つまり、それ以外の哲学と呼ばれるものは形而上のこ
とはすべて神話に委ねて、あくまでも「形而下(physical)」の学問で
しかなく「形而上学」とは呼べないと言うのです。では「形而上学」
とは何かと言えば、それら形而下の存在全般を存在たらしめている
《存在》とは何かを問う学問で、古代ギリシャの哲学者アリストテ
レスの言葉から「第一哲学」と呼ばれ、そもそも形而上学はプラト
ンとアリストテレスから始まった。ところで「存在とは何か」と問
えば、当然のことながら「存在」は「事実としての存在」と「本質
としての存在」に二分化される。そして、遷り変わる事実存在よりも
不変である本質存在こそが真理であるということになる。この形而上
学的思惟による「事実存在」と「本質存在」の二分化こそが様々な二
元論の根源に違いない。人間における「事実存在」とは「肉体」であ
り、「本質存在」とは「精神」である。ハイデガーもまた思想的「転
回(ケ―レ)」を迫られた《存在了解》について、ここで改めて《存在
了解》について記述するのも今更の感は否めないが、そもそも人間は
了解しないままこの世界に投げ込まれ(被企投性)、成長と共に理性が発
達するとやがて意識(本質存在)は目の前の世界(事実存在)を離れて(脱自
態)、《存在》の視点から世界全体を了解して受け入れようとする(存在
了解)。そして初期のハイデガーは「現存在が了解するときにのみ、存
在はある」と言い、《存在》とは現存在、つまり人間が存在しなければ
取り上げられることのない概念であって、《存在》は唯一の了解者であ
る人間の思い(企投)に委ねられる。わかり易く言えば、世界の外から世
界を眺めることができる「現存在(だけ)が《存在》を規定する」ことが
できると考えた。しかし、一方で世界に依存して生存している「事実存
在」としての人間にとって「存在が現存在(人間)を規定する」ことに疑
いの余地はなく、それまでの《存在了解》の考え方を改めざるを得なく
なって、「存在と時間」の上巻を発刊した後に思想的「転回(ケ―レ)」
に迫られて下巻の著述を断念した。後期のハイデガーは、「存在が了解
のうちにあるという可能性は、現存在の事実的実存を前提にし、現存在
の事実的実存は自然の事実的現存を前提にしている」(『論理学の形而上
学的基礎――ライプニッツから出発して――』199頁)『全集26巻』
つまり、「人間が世界の外から世界を認識することができるのは、人間
がこの世界に実存しているからで、そして人間が実存できるのは自然が
あるからだ」と言っている。
(つづく)