「二元論」新(9)

2021-05-29 13:42:52 | 「二元論」

            「二元論」

 

             新(9)

 

 ハイデガーによれば、「形而学(meta-physics)」とは古代ギリ

シャで生まれ、その後西欧社会だけにしか拡がらなかった学問であ

って、だから「西洋哲学」という言葉は同語反復であるとまで言う

のですが、つまり、それ以外の哲学と呼ばれるものは形而のこと

はすべて神話に委ねて、あくまでも「形而(physical)」の学問で

しかなく「形而学」とは呼べないと言うのです。では、いったい

「形而学」とは何かと言えば、それら形而の存在全般を存在た

らしめている《存在》とは何かを問う学問で、古代ギリシャの哲学

者アリストテレスの言葉から「第一哲学」と呼ばれ、そもそも形而

学はプラトンとアリストテレスから始まった。ところで「存在と

は何か」と問えば、当然のことながら「存在」は「事実としての存

在」と「本質としての存在」に二分化される。そして、遷り変わる

事実存在よりも不変である本質存在こそが真理であるということに

なる。この形而上学的思考がもたらす「事実存在」と「本質存在」

の二分化こそが様々な二元論の根源に違いない。人間における「事

実存在」とは「肉体」であり、「本質存在」とは「精神」である。

ハイデガーもまた思想的「転回(ケ―レ)」を迫られた《存在了解》

について、ここで改めて《存在了解》について記述するのも今更の

感は否めないが、そもそも人間は了解しないままこの世界に投げ込

まれ(被企投性)、成長と共に理性が発達するとやがて意識(本質存

在)は目の前の世界(事実存在)を離れて(脱自態)、《存在》の視点

から世界全体を了解して受け入れようとする(存在了解)。そして初

期のハイデガーは、「現存在が了解するときにのみ、存在はある」

と言い、《存在》とは現存在、つまり人間が存在しなければ取り上

げられることのない概念であって、《存在》は唯一の了解者である

人間の思い(企投)に委ねられる。わかり易く言えば、世界の外から

世界を思い描くことができる人間だけが世界を構成することができ

ると考えた。しかし、一方で世界に依存して実存している取り残さ

れた「事実存在」としての人間にとって、世界が人間を規定するこ

とに疑いの余地はなく、それまでの《存在了解》の考え方を改めざ

るを得なくなって、「存在と時間」の上巻を発刊した後に思想的「

転回(ケ―レ)」に迫られて下巻の著述を断念するにいたった。後期

のハイデガーは、「存在が了解のうちにあるという可能性は、現存

在の事実的実存を前提にし、現存在の事実的実存は自然の事実的現

存を前提にしている」(『論理学の形而上学的基礎――ライプニッ

ツから出発して――』199頁『全集26巻』) と言い、つまり、

「人間が世界の外から世界を思い描くことができるのは、人間がこ

の世界に実存しているからで、さらに人間が実存できるのは自然が

あるからだ」と、今のわれわれが聴けば何の変哲もない当たり前の

ことを弁明にしている。

 転回(ケ―レ)後のハイデガーは、二元論をもたらす形而学的思

惟から離れて、プラトン、アリストテレス、そして彼らの先駆者で

あるソクラテスよりも以前の思想家たち、彼らは一様に「フォアゾ

クラティカー」と呼ばれているが、アナクシマンドロス、ヘラクレ

イトス、パルメニデスなどといった「存在とは何か」を問う形而

学以前の思想家に傾倒するようになる。それは、間違いなくニーチ

ェの影響からである。

                         (つづく)