「技術と芸術」 (4)[改稿] 

2020-02-17 11:13:58 | 従って、本来の「ブログ」

            「技術と芸術」

            (4)[改稿] 


 ショウペンハウア―は、我々の認識能力には限界があり、世界全体

を認識することはできず、表象の世界だけしか認識することしかでき

ないので、我々はそれぞれの認識能力に応じた表象としての世界を世

界全体として認識するしかない。つまり、「世界とは私の(認識能力が

創り上げた)表象(の世界)である」。これは何となくわかる。

 では、「世界とは私の意志である」とはどういう意味なのか?ここ

で使われている「意志」とはショウペンハウア―独特の言葉で、彼自

身も著書の序文でプラトンとカントだけは読んでおくようにと断りを

しているように、それはプラトンの「イデア」、キリスト教の「神」

、そしてカントの「物自体」と同じように、仮にこの世界が仮象の世

界だとすれば「真の世界」こそがショウペンハウア―の言う世界の「

意志」なのだ。それは沸々と萌え出でて来るカオスであり、我々一人

一人の異なる意志を遡れば彼の言う「意志」に辿り着く。つまり、我

々はそれぞれが自由意志によって生きていると思っていても、しかし

与えられた身体能力には同じように限界があり本能にも束縛され、な

によりもいずれ死ぬ。それらはすべての生命に共通して負わされた生

きるための条件であり、我々の「意志」によってはどうすることもで

きない世界の「意志」なのだ。つまり、「世界とは(「意志」であり)私

の意志(は世界の「意志」と同じ)である」ということであり、「意志と

表象としての世界」とは、「意志」に拘束され仮象(表象)の世界で生き

ることにほかならない。我々の意志は身体に縛られた意志でありそれは

思い通りにならない意志である。「意志」は我々が自由奔放に生きるこ

とを認めない。「意志」はそれぞれを欲望に目覚めさせ競い合わせて、

生きることとは欲望に追い立てられ、その苦しみから逃れることでしか

ないのか?この世界とは苦しみこそが共通する実感ではないか?ショウ

ペンハウア―は苦しみの共感を「共苦」(Mitleid=ミットライト)と呼び、

「共苦」こそが世界の現実だと考えた。それはまさにペシミズムであり、

この世界を「一切皆苦」と説く仏教の世界観にほかならない。

 

                          (つづく)


「あほリズム」(642)

2020-02-16 05:02:42 | アフォリズム(箴言)ではありません

         「あほリズム」

 

          (642)

 

 わが国が中国武漢市で発生した新型コロナウィルスへの対応で、

すでに中国全土に感染が拡大しているにもかかわらず、中国政府

の意に添って中国からの入国を全面禁止にしなかったことは、ア

メリカは迷わずにそうしたが、もちろん春節期の観光収入に影響

するという経済的な理由があったにせよ中国政府寄りの「忖度」

が働いたとすれば、米中対立の最中で日米の友好関係にも影を落

とすことになるのかもしれない。ただ、その「忖度」によって水

際対策に抜け穴が生じ、日本国内での感染が拡大したとすれば、

日本国民の安全よりも経済と中国への「忖度」を優先させた安倍

政権の誤った政治判断はその責任を免れない。

 


「技術と芸術」(4)

2020-02-15 16:10:55 | 従って、本来の「ブログ」

            「技術と芸術」

 

               (4)


 ショウペンハウア―は、我々の認識能力には限界があり、世界全体

を認識することはできず、表象の世界だけしか認識することしかでき

ないので、我々はそれぞれの認識能力に応じた表象としての世界を世

界全体として認識するしかない。つまり、「世界とは私の(認識能力が

創り上げた)表象(の世界)である」。

 同じように、我々の身体は生存本能に縛られていて、それは存在す

るすべての生物が共有する謂わば本能的な意志であり、つまり、「世

界(の意志)とは私の(本能に引き継がれた生存への強い意志である」。

そして、我々の世界とは「(生存するための)意志と(誤謬である)表象と

しての世界」なのだ。たとえば、我々は誰しも等しく幸福を追い求め

るがすべての人が同じ幸福を手にすることはできない。ところで、我

々が幸せを追い求めるのは苦しさから脱け出したいと思うからにほか

ならない。だとすれば、我々は苦しみの世界に生れてきたのではない

か?そして、生きることの共通の苦しみから抜け出そうとして意志が

芽生える。ショウペンハウア―は苦しみの共感を「共苦」(Mitleid=ミ

ットライト)と呼び、「共苦」こそが世界の現実だと考えた。まさに

それは仏教の世界観にほかならない。

                     (つづく)


「あほリズム」(641)

2020-02-14 08:22:18 | アフォリズム(箴言)ではありません

            「あほリズム」

 

             (641)

 

 新型コロナウィルス(COVID-19)への日本政府の対応は、

中国人の観光客が最も多い春節の時期と重なったために、

観光収入の減収を恐れて、武漢在住か訪れたことのある人

の入国は禁止にしたが、それ以外の中国全土からの入国を

禁止するまでに到らなかったので、アメリカはすぐにそう

したが、すでに感染は中国全土に拡大していたので、水際

での防疫は失敗した。つまり、すでに日本人から日本人へ

の複次感染が始っていると思った方がいいのではないか。

もしもそうだとすれば、感染の終息が東京オリンピック(7

月24日)までに間に合うかどうかが気になる。


「あほリズム」(640)

2020-02-12 22:48:49 | アフォリズム(箴言)ではありません

           「あほリズム」

 

            (640)

 

 我々の世界認識は我々の身体能力に適応して得られる。ところが、

科学技術の進歩によって我々の身体能力が及ばない世界をも認識で

きるようになり、我々は身体能力を超えた世界認識を手に入れた。

 かつてギリシャの哲学者プラトンは、永遠不変ではないこの世界

を真の世界ではないとして、真の世界、つまり「イデアの世界」の

存在を説いたが、それはカントでは「物自体」、ショウペンハウア

―は「意志」と、呼び方は変わっても「プラト二ズム」の世界観は

ゆるがなかった。しかし、ミクロの世界もマクロの世界にも「イデ

ア」をうかがわせる形跡は何一つ見当たらなかった。最も大きな科

学の功績は何かと問われれば、「プラト二ズム」の終焉をもたらし

たことに尽きる。