ハイデガー著「存在と時間」上・下
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ハイデガーは「存在と時間」の続編を出版する前に、本人自らが後
に言及しているが、考え方が「転回(ケ―レ)」して刊行を見送った。
これは以前にも記しましたが、ハイデガー哲学の第一人者木田元によ
れば、
「〈存在了解から存在の生起へ〉、もっと正確に言えば、〈存在了解
の歴史〉から〈存在生起の歴史〉へとその考え方を変える。これが彼
のいわゆる前期から後期への『思索の転回(ケ―レ)』と言われる。この
転回を、〈現存在が存在を規定する〉と考える立場から、〈存在が現存
在を規定する〉と考える立場への転回と言うこともできるかもしれない。」
(木田元著『ハイデガーの思想』)
つまり〈存在了解〉という概念が躓きの原因だと言うのだ。そして、
「この概念には、それが現存在の在り方と連動するものであり、したが
って現存在がその在り方を変えることによって変えることのできるもの
だという合意がある。そのかぎりでは、前期のハイデガーは〈現存在が
存在を規定する〉と考えていた、といってもよいかもしれない。」(同書)
それでは、前期のハイデガーが「現存在がその在り方を変えることに
よって変えることのできる」世界とはいったいどのようなものだったの
だろうか?
「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく
新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、
もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権すること
によって明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義
的文化をくつがえそうと企てていたのである。」(同書)
ここで分りづらいのは「本来的時間性」という記述ですが、これこそ
はハイデガーが自著「存在と時間」の中で主張する主要なテーマなので
すが、木田元はそれを分りやすく説明してくれている。
「現存在がおのれ自身の死という、もはやその先にはいかなる可能性も
残されていない究極の可能性にまで先駆けてそれに覚悟をさだめ、その
上でおのれの過去を引き受けなおし、現在の状況を生きるといったよう
なぐあいにおのれを時間化するのが本来的時間性であり、それに対して
おのれの死から目をそらし、不定の可能性と漠然と関わりあうようなあ
り方が非本来的時間性だということになる。」(同書)そしてハイデガー
は、「現存在の存在とは時間性である」とまで主張する。ここで明らか
なことは、「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心
主義的文化」とは非本来的時間性の下で営まれているということであり、
それは〈存在=生成〉にはそぐわない存在概念〈存在=被制作性〉であ
り固定化した存在概念である。
ところでハイデガーは、自然を〈存在=現前性=被制作性〉と捉える
アリストテレス以来の伝統的存在概念は「非本来的な時間性」の下で行
われる存在了解に由来すると考えた。そして、
「この視点から見られるとき、存在者の全体は、したがって自然もまた、
〈作られたもの〉〈なお作られうるもの〉として見えてくる。つまり、
自然は制作のための単なる〈材料・資料〉(ヒュレー)と見られるのであ
る。ギリシャ語のこの〈ヒュレ―〉がラテン語では〈materia〉
(マテリア)と訳され、これが英語の〈material〉に引き継がれ
る。いわゆる物質的な自然観、自然を制作のための死せる資料と見る自
然観はこの視点の下に成立したのであり、その上に立って近代の機械論
的自然観も成り立ちえた。こうした自然観を基盤に近代ヨーロッパの文
化形成がおこなわれてきたことは明らかである。このような自然観は、
当然のこととして制作のための技術知の担い手である人間を世界の中心
に据える人間中心主義と、顕在的潜在的に連動している。してみれば、
近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化
形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する〈存在=現前性=被
制作性〉という存在概念にあると見るべきだ――とハイデガーはこう考
えていたのである。」(同書)
もはやこれは明らかに近代科学文明社会の否定であり、ヒューマニズ
ム(人間中心主義)の否定以外の何ものでもない。それにしても今からほ
ぼ100年も前に、「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの
人間中心主義的文化」などと言われると、そのころの日本は欧米列強に
追い着かんと一等国への仲間入りを目指してひたすら近代化を急いでい
た頃で、しかし、すでに彼らは近代科学文明社会の限界を予感していた
ことに隔絶の感を禁じ得ない。それと言うのも、〈存在=生成〉と捉え
る存在概念からもたらされる世界とは「もう一度自然を生きて生成する
ものと見るような自然観を復権すること」、つまり自然回帰であり、そ
れは今まさに問題になっている地球環境の持続可能性 (sustainability) の
崩壊によって「ゆきづまりにきている」近代科学文明社会の転回が求め
られているからである。
(つづく)