「あほリズム」(802)(803)

2021-02-13 02:24:35 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

           (802)

 

 われわれは生涯を振り返って、何か一つでも意味のあることを成

し遂げたかと問えば、たとえば、ある者は赤貧の身から一代で巨額

の蓄財を為しただとか、ある者は先祖が築いた巨額の遺産を一代で

食い潰しただとか、また、ある者は世界中を旅したとか、またある

者は生涯自室に引き籠って命を終えただとか等々、それら、謂わば

自らの臨終と共にいずれ何一つ残らない痕跡でしかないとすれば、

われわれが為し得る唯一の意味のあることは、子孫を残すこと以外

に何もないのではないだろうか。

         

          (803)

 

 子孫を残すこと以外に何一つ痕跡を残すことなどできない個人が

集った社会において、その社会の歴史を振り返ってみれば、なるほ

ど様々な生存のための様々な手段が考え出されたが、しかし、それ

らの手段によって唯一成し遂げられた目的は、種族の増殖以外に何

一つない。つまり、われわれの世界はひたすら人類を増殖させるた

めに営まれてきた。そしてそれは何も人類だけに限られたことでは

ない。確かに、われわれが生存するための手段は格段に増えたが、

しかしその目的は未だ動物たちと何ら変わらない。


「二元論」(3)

2021-02-12 04:15:28 | 「二元論」

         「二元論」


           (3)


 哲学者ハイデガーの研究者として知られる故木田元氏(1928

年~2014年)によると、ハイデガーは自著「存在と時間」の上

巻を刊行した後に思想的転回を余儀なくされて予定されていた下巻

の刊行を取り止めた。私はそれまでニーチェのアフォリズムを暇つ

ぶし程度に読んでいたが、しかしハイデガーにはあまり良い印象を

持っていなかったことから、それはもちろん彼がナチスの支持者で

あったからで、ところが、木田氏が著した「ハイデガーの思想」を

読んでハイデガーによる「ニーチェ」の講義が書籍化されているこ

とを知って、また木田氏があまりにも絶賛するので取り寄せて読ん

だ。実際、これはすごかった。あのニーチェが一足飛びで駆った足

跡を丁寧に解説しながら辿ってニーチェについてこれほどまでにも

判り易く書かれた本はなかった。付け加えると、あの難解なハイデ

ガーの言語を見事に和訳してみせた細谷貞雄氏をはじめとする翻訳

家の人々を称えない訳にはいかない。本に戻ると、なるほどこれほ

どまでもニーチェ思想の影響を受けた者だからこそナチスの過激思

想に加担することにもさしたる疑いを抱かなかったのかもしれない。

 さて、その木田元氏の「ハイデガーの思想」によると、ハイデガ

ーの思想的転回(ケ―レ)の原因は《存在》そのものの捉え方(存在了

解)を改めざるを得なかったからだと言うのだ。

木田元氏は著書「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で

ハイデガーが思想的転回(ケ―レ)を余儀なくされた経緯を推察して

書いていますが、それによると、「ハイデガーは人間を本来性に立

ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、あそらくは

〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生

成するものとして見るような自然観を復権することによって、明ら

かにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化をく

つがえそうと企てていたのである。」これだけ読むとりっぱな文明

批判で自然に帰れと言ってるとしか思えないですが、いくつか補足

すると、科学技術は「自然は制作のための単なる〈材料・質料〉」

と看做し、「〈存在=現前性=被制作性〉というアリストテレス以

来の伝統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性

を場としておこなわれる存在了解に由来する。」つまり、われわれ

が自然と向き合う時に、われわれは本来的な時間性の場である「自

然=内=存在」として存在するのか、それとも「自然は制作のため

の単なる〈材料・質料〉」としか見れないとすれば、われわれは非

本来的な時間性を場とする自然の外へ一歩踏み出すことになる。

 そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて

いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ

るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか

?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ

されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる

もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う

者は当然その答えの意味を理解できる者でなければならない。そう

でないと、問いかける人間の理解能力を超えた《存在》の意味は理

解され得ない。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に

問うことの意味は規定される。人間にとっての《存在》の意味は人

間の理解能力が受け入れられるものでなければ意味をなさない。も

しも、《存在の意味》がどれほど真実だとしても、人間がその意味

を理解する能力を持っていないとすれば「無意味」である。だとす

れば、「《存在》とは何であるか?」を問うことは、『人間にとっ

ての』「《存在》とは何であるか?」』を問うことにほかならない。

つまり、その答えがどうであれ人間が《存在》をどう理解するかに

よって《存在》の意味は変わることになる。ハイデガーは「現存在

(人間)が存在を了解する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「

前期のハイデガーは〈現存在(人間)が存在了解を規定する〉と考えて

いた、と言ってよいかもしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)

と述べている。ところで、〈人間が存在了解を規定する〉ということ

は、人間が世界を作り変えてもいいことになる。

ところで、私もこれまで幾度か使いましたが、ハイデガーは人

間という言葉を避けて「現存在(Dasein)」と言い換えます。それ

は、おそらく生きている人間はいまは「存在している」が、

いずれ死んで存在しなくなるからだと思います。そもそもハイデ

ガーは、現象学的存在論として「存在と時間」を書き始めました

が、上に述べたように、まず、その準備として「問いかけられて

いる」現存在とは「何であるか?」を確認するために「現存在の

準備的な基礎分析」及び「現存在と時間性」を発表したあと、そ

れだけで優に1000ページはあるが、続刊が予定されていた本

論である存在論は出版されずに終わった。そのため「存在と時間」

は当時隆興してきた実存論と誤解されたが、彼は存在論だと主張

している。

 では、「存在とは何であるか?」を思惟する現存在とは何であ

るかといえば、現存在を規定する絶対的な現象は「死」であり、

「死」は現存在の存在の限界を意味します。自らが限られた存在

でしかないことを認識した現存在は現前の日常に流されるだけの

「頽落」した生活を改めて存在することの本来性、つまり「先駆

的覚悟性」(ハイデガー) に目覚め、それは「死」がもたらす限ら

れた《時間性》(テンポラリテ―ト)によって現存在を本来性へと

覚醒させる。つまり、「テンポラリテ―ト」とはあくまでも現存

在だけに関わる概念にほかならない。

                        (つづく)


「二元論」(2)のつづき

2021-02-08 07:46:22 | 「二元論」

           「二元論」

 

            (2)のつづき


 形而上学的境涯、つまり「存在とは何か?」を問うことに生涯

をかけたニーチェにとって最終結論である実存主義思想はもの足

りなかった。「神は死んだ」「この世界が全てだ」では何よりも

精神の居場所がなくて忽ちニヒリズムに陥る。事実存在がすべて

であれば世界は意味を失う。しかしモノが消えても想いは残る。

そこでニーチェは新たな精神をニヒリズムにこそ求めた。超人思

想とは精神主義者ニーチェの実存主義からの転回にほかならない

。永劫回帰説とは「この世限り」の実存思想の全否定である。つ

まり、ニーチェもまた事実存在としての実存と本質存在としての

精神の二元論に逡巡した。形而上学的境涯とは最終結論が出たと

しても形而上学的思惟から離れることができない。

                       (つづく)


「世界が不安定化している」

2021-02-02 06:49:04 | 従って、本来の「ブログ」

         「世界が不安定化している」

 

 世界各国の社会秩序が不安定化している。これは、世界経済が「

成長の限界」に達し、行き詰まった格差社会の下で豊かさを奪い合

っているからだ。ミャンマーでは軍事クーデターが起き、ロシアで

はプーチン政権に反対するアレクセイ・ナバリヌイ氏の解放を求め

る抗議デモに市民が殺到して、政府は5千人を超える参加者を拘束

したと報道は伝える。そして、それら抗議デモの発端をもたらした

のは、香港の民主化運動であり、そして、近代民主主義政治の元祖

アメリカでの暴徒化したトランプ大統領支持者たちによる連邦議会

への侵入だった。アメリカはそれまでにも黒人差別への抗議デモを

繰り返して過激化していたが、しかし、議会議事堂への侵入は民主

主義政治の破壊にほかならなかった。つまり、今、世界の民主主義

が試されている。

ミャンマー クーデター 背景に“スー・チー氏と軍の緊張関係” | NHKニュース

ロシアデモ、拘束5000人超 ナバリヌイ陣営、闘争継続を強調:朝日新聞デジタル

 世界のこれらの一連の動きは、つまり、プーチン、習近平、トラ

ンプら、もちろんそこに安倍元総理を入れてもまったく遜色はない

が、所謂保守派と呼ばれる既得権に与る者たちに、すでに彼らは多

くを得ているのだが、それでもなお「寡なきを患える」者たちに支

持されたこれらの政治家たちは、決して「均しからざるを患う」民

主主義者の声に耳を貸そうとはしない。しかし一言で言えば、民主

主義とは「均しからざるを患う」ことにほかならない。豊かさをも

たらす自然環境は破壊され、にもかかわらず人口は極限まで増える

とすれば、豊かさは奪い合うかそれとも分け合うかしかないのであ

れば、どう考えてみても、たとえ「右寄(うよ)」曲折はあったとして

も、たとえばトランプ元大統領のような時代に逆行するような人物が

現れたとしても、いずれ世界は豊かさを均しく分け合う方へ、つまり

エントロピーが増大する方へと向かう以外に考えられない。

 そして、何よりも国内政治の不安定化は、かつて第一次世界大戦で

敗戦したドイツが巨額の賠償金を支払わなければならなくなって、経

済的な不満からヒットラー率いるナチスが台頭して近隣諸国へ侵略し

たように、多くの政治家は国内に募る不満を対立国へ向けさせようと

してきたことを忘れてはならない。コロナ禍のあとのコロナ「過」の

世界は破たんした国家財政を立て直そうとしてかつてのナチスドイツ

のように自国第一主義へと向かわせることだろう。それは、すでに天

文学的な債務を抱える我が国にとっても経済破たんの恐慌を予感させ

ずには居れない。すでに金融経済は実体経済とかけ離れてバブル崩壊

前夜の様相を呈している。かつて、スペイン風邪のパンデミックの9

年後に当時の新興国アメリカに端を発した経済恐慌が起こったが、さ

らに情報の進んだ現代では3年も経たずに再現されるだろう。もちろ

んその端を発するのは新興国中国に違いない。