2006年11月11日(土) 京都シネマ
「三池」という名称は、多くの人になじみのある炭坑節の生まれた地という関連と、私にとっては「安保」という単語とともに、戦後の日本の歴史の中で熱く燃えた時代を象徴する言葉として記憶の中にわずかに残っていた。
小学校5年生の時に学校の講堂で見た映画「にあんちゃん」(今村昌平監督)の印象は今でも強烈に残っている。と言うより、成人した後、あの映画は実は「にあんちゃん」だったと知って再度見た印象が重なっているのかもしれない。その後、「幸せの黄色いハンカチ」をはじめ、炭坑にまつわる映画は自分に大きなインパクトを与えている。
監督もこの映画の制作を引き受けたとき、炭坑の持つ不思議な吸引力に惹かれたと話をしていた。
映画の中で、三池の歴史が語られる。殖産興業のもと、国営事業として明治政府により開設された、炭坑夫の当初の担い手は囚人であったこと。その後、民間に払い下げられ、日本の基幹産業の製鉄を支えるエネルギー政策の中心にあったこと。女子も抗婦として働いたこと。さらに第二次世界対戦を迎え、労働力が不足してくる中、与論島からの集団移住を迎えたり、朝鮮半島や中国からの強制連行・徴用が始まる。さらには米軍捕虜等も動員されたということである。
いずれにしてもその背景に、危険と過酷な労働条件があったことは言うまでもない。
そして戦後、産業復興の要として増産に励むのだが、エネルギー政策の転換とともにかげりが見え始める。全国で閉山と炭鉱事故が頻発する。組合が分裂することで街が二分される。
大牟田市民は当初、これらを「負の遺産」として過去に触れたがらないと話していたが、映画ができてみると、近代日本の苦難の縮図みたいなところを赤裸々に映していて、感懐深いところがあった。
会場には、熊谷博子監督ともう一人の対談者が来ていて、制作を巡る興味深い話があった後、会場にも発言を求めると、関係者が数人いて、貴重な話も聞けた。
期待してた以上に有意義な時間だった。
「三池」-終わらない炭坑の物語
「三池」という名称は、多くの人になじみのある炭坑節の生まれた地という関連と、私にとっては「安保」という単語とともに、戦後の日本の歴史の中で熱く燃えた時代を象徴する言葉として記憶の中にわずかに残っていた。
小学校5年生の時に学校の講堂で見た映画「にあんちゃん」(今村昌平監督)の印象は今でも強烈に残っている。と言うより、成人した後、あの映画は実は「にあんちゃん」だったと知って再度見た印象が重なっているのかもしれない。その後、「幸せの黄色いハンカチ」をはじめ、炭坑にまつわる映画は自分に大きなインパクトを与えている。
監督もこの映画の制作を引き受けたとき、炭坑の持つ不思議な吸引力に惹かれたと話をしていた。
映画の中で、三池の歴史が語られる。殖産興業のもと、国営事業として明治政府により開設された、炭坑夫の当初の担い手は囚人であったこと。その後、民間に払い下げられ、日本の基幹産業の製鉄を支えるエネルギー政策の中心にあったこと。女子も抗婦として働いたこと。さらに第二次世界対戦を迎え、労働力が不足してくる中、与論島からの集団移住を迎えたり、朝鮮半島や中国からの強制連行・徴用が始まる。さらには米軍捕虜等も動員されたということである。
いずれにしてもその背景に、危険と過酷な労働条件があったことは言うまでもない。
そして戦後、産業復興の要として増産に励むのだが、エネルギー政策の転換とともにかげりが見え始める。全国で閉山と炭鉱事故が頻発する。組合が分裂することで街が二分される。
大牟田市民は当初、これらを「負の遺産」として過去に触れたがらないと話していたが、映画ができてみると、近代日本の苦難の縮図みたいなところを赤裸々に映していて、感懐深いところがあった。
会場には、熊谷博子監督ともう一人の対談者が来ていて、制作を巡る興味深い話があった後、会場にも発言を求めると、関係者が数人いて、貴重な話も聞けた。
期待してた以上に有意義な時間だった。
「三池」-終わらない炭坑の物語