【 2017年9月15日 】 京都シネマ
映画を見た後の印象は、斬新な手法やアイディアを周囲がもてはやす一方で、内容としては空虚なものしか残っていなかった。
映画が3部構成になっていて、別年代の別の男女カップルが織りなす物語なのだが、その男女とも同じ俳優・女優が演じるというややこしいことになっている。下のようなスクリーンが映し出され話が続いていくが、漫然と見ていると内容が混乱してくる。
だいたい外国人の顔は、インド人とフランス人の区別はついても、同じ国の西洋人となると皆同じに見えてきてしまう。それが《同じ役者が演じてる》となると、同じ話の続きかと勘違いしてしまう。同じ俳優とは知らないで、「ちょっと似ているな」くらいに思って訳が分からなくなる。
第1章はまだ良かった。
【 第1章 】
【 第2章 】
【 第3章 】
しかし、第2章以降が、どうも理解できない。
どうも、向こうの映画は、《性愛》を《愛の全て》のように取り違えているような節が見受けられる。《性欲》は愛の重要な一部かもしれないが、それが全てではないと思うのだが。
予告編で上の思わせぶりのスクリーンを見て、《恋人同士が敵味方になる》なんていうコピーを見れば、かつて見た『サラエボの花』とか『ボスニア』とかのような紛争の真っただ中にある反戦映画を想定したが、そうではなかった。この映画も反戦には違いないのだろうが、どうも感覚が違う。
なぜ、どうして戦争が起こってしまったのか・・・何のために恋人は死んでいったのかと。あるいは《あの時、みんな狂っていた。日々の生活や社会への不満や鬱憤を抱えた人たちが、ナショナリズムに扇動され、戦争が現実となってしまった。》とかの疑問が、ストーリのどこかで追及されるのかと思ても、ほとんど触れられない。(あとで、「公式サイト」を改めて見て、そういうことかと思っても、映画を観る前に詳細に見ることはあまりしない)
映画に原作があったりしても、それは別物だし、2時間なりのその映画の中で《背景を含め、話がまとまらないといけない》と思っている。常識は必要にしても、十分な予備知識がないと分からない映画は《いい映画》とは思えないというのが私の《持論》である。
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公式サイトの以下の、法政大学教授・藤村博之氏による【歴史的・社会的背景について】の記事が理解を助ける。
(タイトルのみ掲載する:本文は《公式サイト》を参照)
1.クロアチア人とセルビア人の対立はなぜ起こったのか?
(1)ユーゴスラビアの成立 ・・・自力でナチス・ドイツから解放、・旧ユーゴの多様性
(2)クロアチアの独立 ・・・ユーゴ共産党の分裂、・初めての自由選挙、・紛争の始まり
(3)クロアチアにおける戦争・・・戦争の被害、・数次にわたる領土回復作戦、・戦争が残したもの
2.映画『灼熱』の背景にあるもの
(1)第1話 1991年 クロアチアの独立運動とセルビア人の不安
(2)第2話 2001年 戦争が終わって
(3)第3話 2011年 時代の閉塞感の中で
3.その後のクロアチア
(1)EUへの加盟
(2)人々の生活
『灼熱』ー公式サイト