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【 2018年3月24日(土) 】
7:00朝食のあと、海岸を散歩-8:30ホテルを出発-9:20トリニダー市街中心部見学-11:55同、出発
-12:00ロス・インヘニオス渓谷-12:35奴隷監視塔広場-13:00昼食-15:10サンタクララへ-(途中休憩、妻体調悪し)
-16:35装甲列車襲撃現場へ-17:10共産党本部前のゲバラと子供像の前で写真-19:00ホテル到着
昨日は革命史跡とあまり縁のない都市を回り、夜はホテル主催のショーなども見て時間を過ごしたが、今日はいよいよ中心舞台へ移動する。
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【 海岸の夜明け 】
出発までに時間があったので、敷地の裏手にある海岸を散歩する。私達のたまった部屋は連棟の2階の部屋だったは、浜辺までの敷地はかなり広く、そのあちこちにバンガロー風の建物が散在していた。海岸に出ると、早朝にもかかわらず、子どもが沢山水に入っている。
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朝の散歩を終え、専用車で市内に向かう。1時間もかからず、トリニダーの中心部に到着する。古い町である。ここは、音楽の伝統のある街でもある。サルサや民族音楽を教える教室もある。
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道を歩いていると、かつて行ったどこかの街に似ていると思った。ネパールのエベレスト街道に入る時に下りた飛行場のある街、ルクラだ。石畳で、中央がくぼんで、水を流すような下水路の代わりのような溝が刻まれている。乗り物はラバ(ヤク)ではなくこちらは馬だ。
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ハバナがアメリカ資本によって高層ビルが建てられ、歓楽街として近代的な様相を帯びているのに対し、この辺りは古い街並みがそのまま残り、郊外には大農場が広がり、「昔の面影を残している。農民の姿も多いが、文化的な香りも感じられるところもある。
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町の中心の広場の周辺に歴史的建造物がある。その一つの「市立歴史博物館」に入場する。ここは、奴隷を大量に使ってサトウキビ畑を営み巨万の富を得たイスナガ夫妻と家族の屋敷跡だという事だ。夫人は後にドイツ人の砂糖王ヘルマン・カルティーロと再婚して、この屋敷で優雅に暮らしたそうな。
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【 刺繡する女性 】 【 奴隷商人 】
建物の内外に、館を管理する職員とも近所の住民ともつかない人が、内職のようなことをしつつ観光客にものを売っている。女性は、白い生地に刺繡をしていて客が近づくと顔をあげて「私たちまずしい」といいながら買うように迫ってくる。60×40センチくらいの大きさのが5ペソくらいだったから、手間ひま考えたら決して高くはない。買おうと思ったが止めてしまった。後から思ったが、たたえ5ペソでも彼女らの家計にとっては大きな助けになったかもしれないと考えると買ってやった方が良かったかなとも。
狭い階段を上り塔の上にのぼると、トリニダーの街全体と海が眺められる。
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【 市立博物館屋上から 】
町の一角で名物のカクテル『カンチャンチャラ』を飲んだ後、昼食は郊外の農場に向かう。
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【 カクテル「カンチャンチャラ」 】
旅行案内書にあった「ロス・インヘニオス渓谷」とはいったいどんなところかと思ったが、バスが上り詰めた高台から見た《渓谷》は日本の渓谷のイメージからはかけ離れた、だだっ広い盆地のような草原だった。
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【 《渓谷》というからどんな谷かと思ったら・・・】
大農場の中心部である『マナカ・イスナガ』の奴隷監視塔に向かう。高いところが大好きな私たちはさっそく塔のてっぺんにのぼる。(当然、エレベーターなどないから2本の足で)上から見下ろすと、広い農場全体が見渡せる。でも、どうやって奴隷を監視し、仮に怠けているものがいたら、どのように指示を出していたのだろうかと思う。
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【 マナカ・イスナガの塔(奴隷監視塔) てっぺんからの眺め 】
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塔の周辺では、「市立博物館」周辺と同様に、物売りをする主婦たちがたくさんいて《営業》をしている。遠くから見た時に、「どうして、観光地の周辺でシーツや洗濯物を干しているのだろうか?」と思ったが、それは洗濯物でなく刺繡をほどこした売り物だった。ここのものは、ハンカチやテーブルクロスといった小物でなく、衣服やそれこそ布団カバーやシーツにするような大きなものばかりだった。すべて手作業ですごい手間ひまをかけて作っていると思われるのだが、ほとんど全部、白い生地に白糸で刺繡してあるのもだから、見栄えがしない。あれだけの労力をかけるのなら、もう少し意匠を凝らして組織的に生産したら、もっと金になると思うのだが、と感じる。
昼食は広い農場を見渡せる高台でとった。ここでも生バンドが迎えてくれる。
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ここの食事を説明しておくと、キューバ料理としては標準的なもののようであるが、角皿の手前にある物-赤いご飯に小豆を一緒に炊き込んだ、日本の「おこわ」みたいなもので、キューバの主食だそうだ。ほかの場所でもよくお目にかかったが、日本のそれより、色は濃く米はパサパサしているが、味は似たようなものだった。
下の皿は、デザートとして出されたもので、ご飯を材料にした「ミルク粥」といったところか。甘い味付けがしてある。
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【 デザートの甘い「ミルク粥」のようなもの → 】
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ところで、うちのカミさんが少し前から体調を崩し、気持ちが悪いといって食事に一切、手を付けなかった。どうも、今朝の食事の生煮えのエビにあたったようだ。
食事のあと、いよいよ革命の中心舞台-サンタクララに向かう。
「キューバ革命」は、直接には1953年7月26日の「モンカダ兵営襲撃」から始まった。これは計画の稚拙さから失敗に終わり、カルトロ以下反乱部隊は逮捕されてしまうが、恩赦で解放されカストロらはメキシコに渡る。そこで出会ったのが、アルゼンチン人のチェ・ゲバラだ。ふたりはアメリカの大企業の支配から南米の国を解放することで共感し、まずはバティスタ独裁に苦しむキューバで行動を起こすことに同意する。こうして1956年の12月、グランマ号に81人の同志が乗り込みキューバに上陸するが、迎え撃ちに合い残ったのはたった12人だけとなるが、ここから不屈の戦いが始まる。
今の日本の状況から考えれば、たった12人のゲリラ活動から始めて革命を成功させるなど常識外れもいいとこだが、当時のキューバでは、民主主義も合法的な手段もなく、一方バティスタはアメリカも手を焼くほど横暴で、その暴力的支配に苦しみ反感を抱く農民が多数派だったという事なのだろうか。その農民の支持を得て部隊も人数を増し、ゲバラとカミーロを隊長にしてハバナを目指し西進する。
革命軍の勝利を決定的にしたのが、ここサンタクララでの攻防だ。
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ゲバラらの部隊は、バチスタ軍の兵士と武器を満載した装甲列車を転覆させ襲撃し、大量の武器を押収し多くのバチスタ軍兵士を捕虜とする。
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【 投降したバチスタ軍兵士と押収した武器 】
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【 装甲列車内の展示美術 】
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革命後、ゲバラは数年、銀行の総裁になったり大臣を務めたりして外交も重ね、国の中枢で重要な役割を果たしたが、再びゲリラの1兵士としてキューバを離れ、最終的にボリビアで《戦死》する。当初、遺骨はボリビアに放置されていたが、後年遺骨が発見されキューバに戻り、埋葬されたのがここサンタクララだった。
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【 共産党本部前の「子どもを抱くゲバラ像」 】
明日訪ねる『ゲバラ廟』にゲバラ他、革命の戦士たちが祀られている。今日は、共産党地区本部前の「子供を抱くゲバラ像」だけをみて、おわる。
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