【 2017年5月17日 】 京都シネマ
以前、TOHOシネマで上映していたのを見逃してしまっていた。タイトルが『アイ・イン・ザ・スカイ』となっていたので、よく確認することもせず《空にいる私》=《ホラー映画》くらいにとって、チェックリストから外していた。
【アイ】は【I】でなく【EYE】だったのだ。タイトルに紛らわしい名前を付けないでほしいと思った。
以前観た映画に『ドローン・オブ・ウォー』(2015年)というのがあった。【ドローン】というと、プロペラが4枚あるおもちゃのヘリコプターのようなものをイメージするが、ここではそんな生易しいものではなく【無人偵察機・爆撃機】のことである。
背景や題材は前作と似たようなものだが、この間の技術進歩を反映して、より新しい精巧な《アイテム》が加わったほか、描き方もより《重層的で多面的》になっている。感傷的、感情的判断だけでは【何が正しく何が間違えているのか】がわからなくなる。より客観的に冷静に判断する必要があるのだが、
【今回の映画】では、《意思決定》から《目的遂行》までの《手順》が、《責任の所在》を含めて、《相反するそれぞれの立場》から描かれているのが【前作】と大きく異なる。【前作】がボタンを押す行為の最終決断が、《個人の葛藤》と《その場のつばぜり合い》に問題が矮小化されていたのに対し、【今回】は、《ミサイル発射のボタンをいつ押すか》の最終判断を巡って、《目の前に迫った脅威に対し武力の行使を即、決断せよと迫る軍側》と《民間人を巻き込んでの武力行使は控えるべきだという陣営》の考え方を対峙させ、緊迫したやり取りを描写した所は考えさせられる。
面白い事(と言ったら語弊があるが、興味を持った事)は、(嘘か本当か別として)軍側も含め《法律に則った手続き》を重視しているように描かれている点である。
(今の日本の首相には絶対考えられないことである)
誰に最終権限があり、またその地位にある人が《Go》サインを出さない限り実行しない(出来ない)という文化の違いは何なんだろうと思う。
もう一つ。《一人の少女を犠牲にして》でも《差し迫った自爆テロを未然に防ぐため》にボタンを押すかどうかの判断は、実際難しいし、意見も2つに分かれるだろ。それを一人の最高責任者が判断を下すというのは、これまた困難な問題だ。その最高責任者が、不在であったり、職務を追行できる状態になかったり、その《判断能力に必要な知識と理性》が備わっていなかったりとかしたら、どうなるのだろうか考える。
(核のボタンを押すかどうかの最終権限がトランプに握られているということを考えるのも空恐ろしいことだ)
『ルワンダの大虐殺』を前にして、当時の国連平和維持軍は何もできなかった。その後、伊勢﨑健治の『武装解除』を読んで、国連平和維持軍の《対応の仕方・有り方》も変わってきたことを知ったが、判断基準がしっかり定められていることが重要と思う。
(『豊洲移転問題』にせよ、『森友学園の問題』にせよ、《地位》も《権限》も与えられているにもかかわらず、その《職責》も果たさないでいたり、《記憶にない》とか《部下に一任した》とか言うのはもってのほかである)
そんな、(いろいろなこと)を考えさせられる映画だった。
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