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「出版大崩壊」-電子書籍が『本』に替わるか、それよりも重大な問題が

2011-07-21 00:28:01 | 雑感


      【『出版大崩壊-電子書籍の罠』  山田 順著 文春新書 2011年刊 】

 i-Podが出たとき、それまでCDからコピーしたMDを持ち歩き愛用していた私は、近くの者が使っているのを見て「便利なものが出たなー。」と感心し、しばらくして i-Pod に乗り換えた。何にせ、CDが何十枚分も小さな本体に入ってしまうのだから今日はどれを持っていこうかと悩む必要もない。
 しかしそれはあくまで、外出するときのアイテムであって、部屋の中では従来のコンポーネント・システムのスピーカーから出る音を楽しんでいる。

 i-Pad が出たときはそれとは違っていた。どうしてわざわざ書籍の内容を液晶の画面に映して見なければならないのかわからない。だいたい、書き込みや傍線が引けない。(私は、気になったところや感心したところなど、やたらと傍線を引く癖がある。-それを見て妻が「そんなことをしたら、処分するときに本が売れない。」というが、私は一度買った本はよっぽどひどい本でない限り、手放そうとは思ず、ずっと手元に置いておきたいたちである。だから、めったに貸し本も利用しない。したがって、本は増える一方である。)

 パソコンやらDVDデッキ、ブルー・レイレコーダーなど新しい電子機器が出るたびに「無断」で買い込んではそのたびに非難を浴びるが、i-Pad のときはそのコマーシャルを見ていた妻が先制して牽制球を送ってきた。
「あんなもの買わないからね!なんで、わざわざ、画面で見なければいけないの。」
 その点については、その通り同感である。もともと、i-Padなど買うつもりはないが、10年近く使っているノート・パソコン(何と Windows 2000で動いている)をそろそろ買い換えないといけないと思っているところ、ノート・パソコンも i-Pad も同じものと思っているから、上の先制攻撃はすこしあつかいが厄介だ!)


 そう、携帯電話が普及し始めたころも、周りがどんどん持ち始めても、「自分だけは携帯電話など絶対持つものか。あんなもの持たされた日には、管理者側にいいように使われるし、自分の居場所と時間がなくなる。」と思っていた。しかし、今はある面便利だと思うし、それなりに使っているが。



     ○    ○    ○


 さて、本の内容に移ろう。

 著者は元光文社(カッパ・ブックスなど新書版のベストセラーを出した出版社)ペーパー・バックス編集長で出版業界の事情を知りつくした人だから、説得力があり読んでいて面白い。

 本の前半は『i-Pad』や『Kindle』(こちらのほうはその存在自体、私は知らなかったが)などが巻き起こした電子書籍ブームについて、経緯と著者の見解が述べられている。

 興味深いのは、むしろ後半である。

 私の個人的な感覚としても、電子書籍というのはなじみにくい感じがする。音楽もスピーカーから流れる音のほうがいい(欲をいえば、生演奏はもっといい)が、利便性と質の差を考えるとi-Podでもいいと思ったが、電子書籍はいただけない。前述したように傍線が引けないこともあるが、存在感が無いから読んだ後の満足感が得られない。《つん読》ということは最近めったにせず、買う本はほとんど読破するようにしているが、読んだあと書棚に飾り、その背表紙のタイトルを見ては、内容を反復しながら充足感を確認するのは、それは楽しい。

 だから何度もいうが、当面『iーPad』や『Kindle』など買う予定はないのであるが、出版業界への影響はそんな甘くは無いようである。


 本のサブタイトルは「電子書籍の罠」であるが、問題は電子書籍にとどまらず情報化社会の危うさをも警告している。

 『中抜き』という言葉や『自炊』という言葉を、この本で初めて知った。著作権や再販制度など出版業界に根本的にかかわる権利や制度自体の侵害され、「アマゾン」や「グーグル」の資本と規模にモノをいわせる《一網打尽》といえるやり方がまかり通ると、出版事業自体の存続が危ぶまれる。

 この本を読んで一番《はっとさせられた》のは、『第十章 「誰でも自費出版」の衆愚』である。その中の、【ごみと名作の区別がつかない世界】という項目がある。

 その項では、過去の名作が、電子書籍化されていない現実をあげた上で、『大量のゴミコンテンツのなかにうもれてしまう。』

 また、『ウェブは、高度情報社会のシンボルだが、その実態はまったく逆で、実は低度情報化社会である。日本のブログ数はアメリカについで多いという。しかし、その90%以上はゴミブログである。(後略)』(P-213【ウェブの本質は「低度情報化社会」】)と手厳しい。


 一部の《批評家》による《流行の誘導》がいいとはちっとも思わないし、《文壇》や《論壇》の存在を100%肯定するものでもないが、そうした基盤が揺らぎ、出版社がその独自の方針のもとで《内容を選んで》出版するということがなくなってしまったら、読者は混乱するばかりである。


 出版社もそうであるが、近くの《いい書店》は地域の文化(財産)であると思う。何でもそろっている大型書店は、それはそれで存在意義があるが、普段通える範囲にある、自分の好みに合った良書をそろえた中型書店は宝である。
 探す本がはっきりしている場合は大型書店でも、それこそアマゾンでもいいのだが、手にとって実物を見ながら本を選ぶには、何でもありすぎる書店は迷うばかりで、かえって不便である。同じ中型の書店でも、品揃えがあわないとまったくといっていいほど読書意欲がなくなるし、その逆の場合は新たな分野の意識も芽生える。
 (以前、職場の近くの河原町に『銀邦堂』というコンビニほどの広さの書店があったが、いい本屋さんだった。)


 今のインターネットの世界を駆け巡る情報の多さに接すると、よほどしっかりした選択眼がないと、逆に情報に振り回されるだけだと、私も感じる。著者に同感である。 

 
 最後の1行を書くまで、今回の問題意識がぶれず、執筆動機というか、書かなければという情熱がひしひしと伝わってくるきて、それが尻すぼみにならず、書き上げたという情熱はたいしたものである。
 人から(出版社から)無理やり頼まれたのでなく、なんとか自分の思いを本にして世に出したいという気概がそうさせるのであろう。しょうも無い出版物の多い中、その迫力に圧倒された。


 普通の人間の一生の間に読める本の数は限られている。たかだか数千冊である。
 著者も言っている。
 『1週間に1冊とすれば月に4冊、年に48冊である。人生80年として、その間にコンスタントに本を読むのを60年として、2880冊である。たったこれだけだから、どうせ読むなら名作や古典、価値ある本を読みたい。しかし、それができないような状況が、いま起こっている。』(本書P-210)
 
 いい本に出会いたいものである。

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