【2014年4月21日(月)】 京都シネマ
かなり前から「予告編」がスクリーンで流され、期待から公開を待ちかねていた。日曜日に行こうと考えたが、どうも混雑しているらしく、休みを取ってあった月曜日に出かける。
映画の前宣伝や予告編から得た情報によると、虐殺を実行した当の本人らは、50年以上たった今も、その罪を追及されることもなく、逃げて隠れることもなく《元気に》暮らしているという。さらに、【何人もの市民を殺した事実】を否定しないばかりか、そのことを自慢し英雄気取りでいるという。
【虐殺】は世界各地で起こっている。ナチスによるユダヤ人に対する『ホロコースト』をはじめ、日本軍による『南京大虐殺』は第二次世界大戦下のことだが、チリアジェンデ政権を反革命で倒した『ピノチェト軍事政権』による虐殺、カンボジアの『ロン・ノル一派』の大虐殺、『ルワンダ紛争』での《フツ族》による《ツチ族》と穏健フツ族の虐殺など枚挙にいとまが無い。アフリカでは『ダルフール紛争』、『ソマリア内戦』、『南スーダン』での大虐殺が現在進行形で進んでいる。
しかし、その後政権が交代し世情が落ち着くにつれその多くは、ナチス戦犯の追及を筆頭に、当時の虐殺責任者の追訴が行われている。絶対的権力を持っていた『ピノチェト』も『クメール・ルージュ』の幹部も例外ではない。
(『日本軍』による『南京大虐殺』は《無かったことにして》、つまり《歴史を変えることによって》、その責任を逃れようとしている点、特異である。)
それでも、この『インドネシアの大虐殺』は全然違っていた。
この映画の『解説』に以下のように書かれている。
これが“悪の正体”なのか―――。60年代のインドネシアで密かに行われた100万人規模の大虐殺。
その実行者たちは、驚くべきことに、いまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしている。映画作家
ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者
への接触を禁止され、対象を加害者に変更。彼らが嬉々として過去の行為を再現して見せたのをきっ
かけに、「では、あなたたち自身で、カメラの前で演じてみませんか」と持ちかけてみた。まるで映
画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせる男たち。しかし、その再演は、
彼らにある変化をもたらしていく…。
(公式サイトより)…。
このドキュメンタリー映画は、残念ながら1965年9月30日に起きた軍事クーデターに端を発する「インドネシア大虐殺」の全体像を描いたものではなく、極一部の関係者が登場するだけで終わっていて、事件の真相も明らかになっていない点が物足りなかったが、腐敗しきった権力構造やそれに群がる取り巻きと、どうにもなりそうもない状況は感じた。
○ ○ ○
横浜から京都の大学にうつり、それまでの《受験勉強》という狭い世界から解放され、一気に世の中が見渡せる新しい世界の空気にふれた大学の1回生の時だったか、キャンパスで先輩の誰かから、『インドネシアでは数百万人が殺された事件が起こっている。』と聞かされたことを記憶している。
「世の中にはそんな大事件が起こっているのか」と驚く一方、そんな大事件(?!)なのにどうして新聞でもテレビでも報道されないのかと疑問もあったが、その時は単なる噂話かとも思いつつ、その後は他の興味に忙殺され、次第に記憶の世界から遠ざかってしまっていた。
それで、この映画の話である。
心理学に『心の理論』という学問分野がある。映画の内容を反復している時、12~13年前に読んだ『心の理論』(子安増生著、岩波科学ライブラリー、2000年刊)に書かれていた内容のことをふと思い出した。
そもそも【心の理論】とは何かといえば、本のサブタイトルにもなっている【心を読む心の科学】で、俗に表現すれば【他人の心の内を読んで、その行動に反映させられるかどうか】の【意識の仕組み】に関する理論であり、これは人間-それも4~5歳以上の成長した人間にしか適用できない理論である。(この説明では「訳が分からない!」というか全然説明になっていない。)この本の内容は改めて別項で紹介することにして、どうして思い出したかというと、上の【解説】の最後にあるように、《再演は彼らにある変化をもたらしていく・・》とあるように、自分らのしたことが、何か重大なこと-非難を受けるような過ちをしたんではないか、と変化していったからである。
ロボットには【人間にあるような心は存在しない】という『心の理論』の研究成果にあわすように、50年前の彼らは、あたかもロボットの様に、《無意識》で《何も感じないまま》人びとを殺していった。そして、いま当時のことを再現することによって、《ひとの感覚=心》を呼び起こされたのではないか、と。
『心の理論』から1つだけ、最も印象深い一節を引用しておく。
「心の理論」研究において、また広く認知心理学の中でも、人間の感情の研究は行われてきたが、
まだ喜怒哀楽のような情動や気分の問題に止まっているといっても過言ではない。しかしながら、
感情を理解するということは、「悪意」の感情の理解までをも含むものでなければならない。
たとえば、「嫌う」、「憎む」、「怨む」、「羨む」、「妬む」、「嫉む、「驕る、「憤る」
などの悪感情についての研究は、これまでほとんど行われていないが、極めて重要なテーマである。
(中略)
少なくとも三歳の幼児は、悪意を持たず、悪意を理解できないようにに思える。・・・(中略)
・・・しかし「心の理論」を獲得した人間は、同時に、悪意や猜疑心をも併せ持つようになる。す
なわち、「心の理論」は、両刃の剣なのである。
(中略)
けれども、人間ほど明確に悪意を示す動物は、おそらく他にはいないだろう。そのことは、幾多
の戦争や紛争の歴史が如実に物語っている。「悪意」の研究は、「心」の科学の究極のテーマであ
ると筆者は考える。」
(P126「エピロ-グ」より抜粋)
あらためて、この本は名著である。
『アクト・オブ・キリング』-公式サイト