「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「興正寺」(こうしょうじ)

2008年06月25日 23時36分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
 浄土真宗興正派の本山・円頓山興正寺は、西本願寺の南隣に位置する。
 かつては西本願寺の脇門跡であったが、明治9年(1876)に真宗興正派として独立した際に、同派の本山となる。大伽藍は、壮大な西本願寺の南に隣接しているため、一見西本願寺の伽藍の一部と見まがう。

 親鸞が創建したとする興正寺草創の寺伝は第七世とされる了源により伝えられており、実際には、京都の五条西洞院にあった親鸞の住坊を1321年頃了源が移転するなどして寺院として開いたのではないかと言われている。

 順徳天皇から聖徳太子にまつわる「興隆正法」の勅願を賜り、これより寺号を「興正寺」とし真宗念仏宣布の根本法城とした。嘉暦3年(1328)前後、了源は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に移すべく寺基を京都汁谷(渋谷=しぶたに、現京都国立博物館の辺り)に移し、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れた。

 この頃「阿弥陀佛光寺」の勅号を後醍醐天皇より賜る。この寺号は、後醍醐天皇が東南の方向から一筋の光りが差し込むという夢を見たという場所に、興正寺の盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきたという霊験に由来しているという。後、寺基を洛中東山に移し佛光寺は益々隆盛となったが、それとともに天台宗 延暦寺の弾圧が強まった。第13世光教の時には応仁の乱で諸堂を焼失。文明13年(1481)には、14世を継ぐべき経豪(後の蓮教)が本願寺の蓮如に帰依し、山科西野に再び「興正寺」として創建、当時山科にあった本願寺に帰参した。

 蓮教は本願寺の蓮如と力をあわせて念仏弘通に奔走したが、天文元年(1532)8月、山科本願寺と共に兵火に遭い興正寺は焼失。天正13年(1585)第15世蓮秀が、天台宗寺院があった大阪天満の地に、広大な堂舎を配した天満本願寺と共に真宗興正寺として法燈をかかげた。後、天正19年(1591)豊臣秀吉による都市計画の一環で、本願寺と共に寺基を現在の京都市下京区に移す。

 本堂は起工から128年の年数をかけ、日光の本廟・知恩院の三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大華麗な大伽藍をなしたが、明治35年(1902)11月、火災により、本堂その他ほとんどを焼失、明治45年(1912)、現在の両堂大伽藍が再建された。

 所在地:京都市下京区七条通堀川上ル花園町70。
 交通:JA京都駅より市バス9番、七条堀川下車すぐ、京都駅より徒歩約15分。

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「城興寺(じょうこうじ)」

2008年06月18日 23時33分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京洛三十三所観音霊場めぐりの第二十二番札所となる真言宗泉涌寺派瑞寶山(ずいほうざん)城興寺は、元は成興寺と称し四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場で比叡山に属した。
 平安時代後期、藤原道長の孫で九条太政大臣と呼ばれていた藤原信長(1023~94)は四至を現在の竹田街道・室町通・九条大路・東寺道とする広大な地に彼の邸宅九条殿を構えてい。応徳2年(1085)邸内に丈六佛を安置する九条堂を建て、城興院と名づけたとある。3代後の関白藤原忠実(1077~1162)がこの地を伝領(相続)
し、永久元年(1113)ここに一宇を建立、10年後には数々の堂塔伽藍も完成し、保安3年(1123)白川法皇の院宣をもって盛大な伽藍供養が行われた。

 「城興寺古伽藍図」に見る当時の寺容は、周囲を築地塀で囲い、九条大路に面して南大門が、中央一列に放生池・仁王門・金堂・講堂と、東側に多宝塔と鐘楼が、西側に御影堂、北側には庫裡や数々の僧坊など、堂塔伽藍が建ち並ぶ立派な寺院であったようだ。
 その後、天台座主最雲親王法親王(白河法皇の)がこの寺を伝領したが没後その弟子以仁王が受け継ぐ。しかし、平清盛が治承3年(1179)の動乱でその知行権を没収して他に与えたことから、平家討伐「以仁王の宣旨」の大きな原因となった。

 平氏滅亡後、城興寺は以仁王の子真性に受け継がれ、16世紀の記録によると寺領は比叡山不動院の管理下におかれたとある。
 中世、平安の都は荒廃し、東九条は次第に京外となり城興寺も衰退、さらに応仁の乱で焼亡して全く昔日の感を失った。そしてうち続く戦乱に烏丸通り沿いに濠を構えてわずかに一堂を残すだとなった。
 江戸時代、庶民の間に信仰と遊山の目的で「洛陽三十三ケ所観音霊場めぐり」が盛んとなり、当寺の本尊千手観音(秘仏)は第二十二番札所として、善男善女で大いに賑わったようだ。観音像は、慈覚大師円仁(794~864)が承和5年(838)、遣唐使の一員として入唐した時、無事の帰朝を念じて船中で造作したと伝えられている。

薬師如来像は、弘法大師作と伝えられている。天長六年全国に大疫病流行し、淳和天皇が弘法大師に祈祷を命じ、大師勅を受け此の尊像を作り祈祷したところ大疫忽ちにやむ。このほか、不動明王像は平安末期の作らしいが、作者は不明。

 所在地:京都市南区東九条烏丸町7-1。
 交通:地下鉄烏丸線九条駅2番出口前。京都市バスで大石橋より徒歩2分。JR京都駅八条口より徒歩5分。


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大徳寺「聚光院」(じゅこういん)

2008年06月11日 15時58分24秒 | 古都逍遥「京都篇」
 大徳寺には名席を有する塔頭が数多くあるが、今回はその一つ聚光院を訪れた。
 聚光院は千利休が豊臣秀吉の怒りにふれ自刃した場所としても知られ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっており、千利休の墓もある。

 当院は室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えた三好長慶(みよしながよし)の養子・義継が永禄9年(1566)に養父の菩提を弔うために笑嶺和尚(しょうれい)を開山として建立。

 茶室「閑隠席」(重要文化財)は利休自刃の場所と伝えられており、現閑隠席は寛保元年(1741)の利休150年忌に際して千宋左(如心斎)が寄付した「茶所」である。三畳上げ台目切りの中柱付きで、点前座のみ蒲の落天井とし、太めの床柱、曲がりの少ない中柱はともに赤松の皮付きで、簡潔にしてしっかりとした広がりを感じる。窓が少なく明かりが抑制された利休の趣が再現されている。

 一方、四畳半の半畳を踏込床にした「枡床席」は、それぞれ客殿の中に組み込まれ、水屋を挟んで東西に配置され、ともに重要文化財に指定されている。
 また、聚光院は数少ない狩野永徳の障壁画を有する寺院としても知られており、そのいくつか紹介しておこう。
 方丈(重要文化財)・礼(らい)之間(下の間)の襖絵「瀟湘八景図」(しょうしょうはっけいず)八面 (国宝)は、古来より景勝の地として文人墨客がしばしば訪れた瀟水と湘水の合流する洞庭湖周辺の八つの風景を描いたもので、狩野松栄(永徳の父)の筆による。軟らかいタッチの淡い線で霧がかかったような感じだが、岩陰等の線はメリハリがある。

 室内には永徳の花鳥図(国宝)があり、力強い春の命を感じる梅が印象的で、枝が川に潜っているため「水潜りの梅」と呼ばれている。その隣には岩に割かれる渓流、鶴、雁等が描かれていた。正面の開いた襖の奥には狩野松栄の「蓮鷺藻魚図」(れんろそうぎょず)八面(国宝)があり、隣の壇那之間は狩野永徳の「琴棋書画図」(きんきしょがず)八面(国宝)がある。

 庭園も侘び寂び感を漂わす名庭で、南庭は千利休の作と伝えられる蓬莱式枯山水庭園。庭中央にある松の主幹から左下と右上に伸びた枝の線が美しい。根元には切り石の橋があり、それに腰掛けるかのように根が地中から伸びている。松以外には庭の奥に一列に並んだ石組が印象的で、百積の庭と呼ばれている。右端にある沙羅の木(3代目)を囲むように配されている。(通常非公開、冬の時期特別公開がある。写真撮影は禁止)

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町58。
 交通:市バス12、101、204~6で大徳寺前下車。

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大徳寺「玉林院」(ぎょくりんいん)

2008年06月06日 07時58分57秒 | 古都逍遥「京都篇」
 山中鹿之助の菩提所として知られている大徳寺の塔頭「玉林院」は、慶長3年(1598)後陽成天皇の侍医・曲直瀬正琳(まなせしょうりん)が月岑(げっしん)宗印和尚を開祖として創建し、「琳の字を分割して玉林院と名付けたという。

 見所は、三畳中板台目切りは珍しく、表千家七代の如心斎好みの茶室「簑庵」(さあん=重要文化財)や四畳半の茶室「霞床席」(かすみどこせき=重要文化財)が日本茶室の中で最も名高い。
 簑庵の「すさ壁」(蓑のような油壁)は、茶室の壁を語るとき必ず出てくるほどのもので、茶室の壁に白亜しかなかった世界に赤土を持ち込み、油と長すさを混ぜ込んだ壁は、京都の揚げ屋であった角屋の磨大津、青貝の間などとともに壁自体が不思議な悟りの世界をかもし出しているかのような見事さである。壁に西日が射すとき、油壁の長すさは黄金色に輝き神々ばかりだ。
 また霞床席の富士の掛け軸に合わせた床の棚は、その奇抜な発想が目を引く。格天井や張付壁などは書院風であるが、柱は杉丸太、床框は太い煤竹、長押も竹の付鴨居と草庵風に自由に崩している。

 一方、南明庵(重要文化財)は、寛保2年(1742)大阪の富豪山中了瑛(りょうえい=鴻池の本家第四代)の建立で、入母屋造り妻入りの祠堂。
了瑛が大龍和尚に牌堂の建設をはかり、如心斎が南明庵を中心に西に小間の簑庵、東に書院として霞床席を配したという。柿葺きの住宅風の瀟洒な建築様式で、楽長入作の赤楽の敷き瓦をはめ込んだ基壇の上にたち、南と東に濡れ縁をめぐらし、侘び寂びの妙を漂わせいてる。

 このほかの見所は本堂(重要文化財)、狩野探幽とその一門による襖絵。
「山水図」(探幽)、「琴棋図」(益信)、「鶴図」(探雪)など。なお、普段は非公開、特別公開時期(冬)を確認のうえ訪ねること。

 所在地:京都市北区紫野大徳寺町74。
 交通:京都市バス(205、206)で大徳寺前下車。 市営地下鉄「北大路」から、市バス1・37(三条京阪から)・204・205・206系統などに乗り換え「大徳寺前下車」。

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