「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「朝護孫子寺」(ちょうごそんしじ)

2010年09月23日 07時47分45秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 朝護孫子寺は、信貴山の山腹に広がる信貴山真言宗の総本山で、境内に入るとすぐに世界一大きな張り子の「福寅」が出迎えしてくれた。今年の干支ということでもなさそうだが、寺内どこへ行っても様々な寅が見られる。
 聖徳太子の創建(594年)とされ、582年ごろ聖徳太子が物部守屋の討伐のため、信貴山に立ち寄って戦勝祈願をしたところ、空に毘沙門天王が現れて必勝の秘法を授けたという。信貴山という山名も「信ずべき山、貴ぶべき山」という意味を込めて名付けられたという。その後、延喜2年(902)醍醐天皇によって「朝護孫子寺」と名付けられた。

 戦国時代に織田信長に攻略され全焼。その後、文禄年中(1592)豊臣秀吉により再建されたとあるが、慶長7年(1602)秀頼とする説もあり定かではない。後に修復を加え延享3年(1746)に完成したが、昭和26年(1951)漏電による火災で焼失し、同33年(1958)に本堂を再建、現在に至っている。

 鐘堂は袴腰が付いており、貞享4年(1687)に再建されている。梵鐘銘には信貴四郎とあり、南部遠明の家臣・田部井十郎が鋳造して奉納したとのこと。
 元禄2年(1689)に建立、明治15年(1882)に修復している多宝塔には、坐像丈三尺に大日如来を安置しているが、恵心僧都作と一説にあることから、古くは天台宗との関わりがうかがえる。
 仁王門は宝暦10年(1760)に大阪宝栄講が再建、明治14年(1881)に大修理され、福院鈴木恵照師の代(大正11年)にこの場所に移転された。
 享保17年(1722)に建立された開山堂は、信貴山開祖の聖徳太子や宗祖弘法大師、中興開山命蓮上人のほか、四国88ヶ所の本尊を祀り、その各寺のお砂も敷いている霊験あらたかなお堂だ。
 
 今では、「張子の寅」として知られているが、寅を祀るようになったのも、毘沙門天王が現れたのが寅年・寅日・寅の刻だった、という言い伝えによるそうだ。
 見どころとしては、平安時代に書かれた「信貴山縁起絵巻(国宝)」が有名で、原本は奈良国立博物館へ寄託されているが、「霊宝館」で複製を見ることができる。信貴山で修行した命蓮上人の説話を描いたもので、有名な「飛倉巻」では、空を飛ぶ倉や米俵などが生き生きと描かれていて興味深い。
 霊宝館の前に極彩色に彩られた「一切経蔵」があるが、その中には回転式の経蔵があり、それを一周させると全てのお経を読破したのと同じだけの功徳があるということなので、ご利益にあずかろうと渾身の力をこめて回してみたが、これがなかなか重く、他の参拝者たちと力を合わせてようやく一周させた。

 本堂のすぐ脇には覚鑁上人が850年前、当山において唯一納めたという如意宝珠が祀られている「戒壇巡り」(100円)があるが、まったく灯りの無い本堂の地下を手探りで一周するという、かなりストイックな趣向である。

 所在地:奈良県生駒郡平群町信貴山。
 交通:JR・近鉄「王寺」から近鉄「信貴山下」で下車、奈良交通バスで信貴山下車。
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「猿沢の池」(さるさわのいけ)

2010年09月09日 11時38分16秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 『手を打てば 鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池』(詠み人知らず)

 「猿沢池」は奈良公園域内にある「興福寺」の放生池で、大仏建立に尽力した行基が遷化した天平21年(749)頃に印度の仏跡「瀰猴(びこう、大猿のこと)池」に模して築造した人工池で、周囲約360mの小さな池で、海の無い奈良にもかかわらず彼方の竜宮に通じているとされ、昔から龍神伝説が語られてきた。
 これを基にした芥川龍之介の短編小説「竜(大正8年5月/中央公論)」に、日頃先が赤い大きな鼻をからかわれていた恵印法師が、池の畔に「3月3日この池より竜昇らん」と書いた立札を立てたら、十丈余りの黒竜が空に舞い昇ったとある。

 「猿沢池」は、昔から「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙はわかず藻は生えず、魚が七分に水三分」といわれている不思議な言い伝えがある。

 池畔の枝垂れ柳越しに望む興福寺五重塔は昔も今も変わらぬ絵はがきの画題になる名勝で奈良八景のひとつとなっている。池には、毎年4月17日の興福寺の放生会(万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式)に鯉が放たれる。最近はカメの名所としても知られるようになったが、岸に立てば、緋鯉、真鯉がエサを求めて寄ってきて観光客を楽しませている。

 毎年中秋の名月の夜に催される祭りがある。
 二艘の管弦船が、優雅な雅楽が流れる中、流し燈籠の間をぬって池を巡り、王朝を偲ばせる幻想的な「采女祭」(うねめまつり)で、奈良時代、帝(みかど)の寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池に入水した采女(後宮で帝の食事の世話などに従事した女官)の霊を慰めるために始まったものと言われている。

 采女を哀れんだ天皇は猿沢池に行幸して、歌を詠んでいる。
 『猿沢の 池もつらしな 吾妹子が たまもかづかば 水ぞひなまし』
  (猿沢の池までも恨めしくてならぬ。いとしい乙女が池に身を投げて水中の藻をかつ(被)いだ時に、水が乾けばよかったのに)「日本古典文学大系『大和物語』」より。

 また、お供した柿本人麿も詠んだという歌がある。
 『わぎもこの ねくたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と みるぞかなしき』
  (このいとしい乙女の寝乱れた髪を、猿沢の池の藻として見なければならないのは、まことに悲しいことだ)「同上」

 10世紀中頃に成立した『大和物語』に始めて登場し、また『枕草子』に取りあげられ、謡曲『釆女』の題材にもなった伝説である。池の東の堤には、釆女が入水するとき衣を掛けたという「衣掛柳」の石碑があり、西北には釆女神社が池に背を向けて鎮座している。

 所在地:奈良市登大路町猿沢49。
 交通:近鉄奈良駅より徒歩7分。
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「中宮寺」(ちゅうぐうじ)

2010年09月07日 07時51分20秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 中宮寺は推古天皇29年(621)聖徳太子が母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)の発願により太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建されたと伝わる。
 現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は500㍍ほど東にあり、現在地に移転したのは16世紀末頃とされている。平安時代以降衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残していたという。

 鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅繍帳を法隆寺宝蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。その後度々火災に会い衰微し、無住となった後ほとんど寺観を留めず、大部分の佛像をはじめ鐘楼などが法隆寺に移管されたそうだ。室町時代の天文年間に、後伏見天皇八世伏見宮貞敦親王皇女、江戸時代初期慶長7年(1602)に慈覚院宮尊智女王を門跡に迎え再興、以来尼門跡寺院として今日に至っている。

 宗派は鎌倉時代頃は法相宗であったようだが、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流したが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えている。全国に尼寺は多くあるが、創建の飛鳥時代以来1300年にも亘り尼寺の法燈を続けておるのは中宮寺だけと言われる。

 現在の中宮寺には、昭和43年(1969)に建てられた本堂が美しくそびえている。高松宮妃殿下の発願によって吉田五十八氏が設計した建物である。本堂に本尊の国宝「如意輪観世音菩薩半跏思惟像」(にょいかんぜおんぼさつはんかしゆいぞう)が安置されている。
 飛鳥時代の作といわれ、広隆寺の弥勒菩薩半跏像とよく比較される。国際美術史学者間では、菩薩像の顔の優しさを評して数少い「古典的微笑」の典型として評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作モナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれている。

 国宝「天寿国曼荼羅繍帳残闕」(てんじゅこくまんだらしゅうちょうざんけつ)は、飛鳥時代の染織の遺品としてきわめて貴重なもので、国宝に指定されている。現在、奈良国立博物館に寄託しているが、昭和57年(1982)に製作されたレプリカが現在本堂に安置されている。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘大女郎が多くの采女らとともに造った刺繍、曼荼羅で、もとは、繍帳二帳よりなり、そこに400字の銘文が刺繍されていたというが、歳月が経つにつれて破損、鎌倉時代当寺の中興信如比丘尼が修復したある。現存しています繍帳は、最初のもと、その鎌倉時代に作られたものが、まざり合って残欠一帳に纒めて修復されたのが現在の曼荼羅である。

 所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1-1-2。
 交通:JR関西本線法隆寺駅より奈良交通バスで中宮寺停留所で下車、徒歩約7分。
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