「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「御金神社」(みかねじんじゃ)

2009年01月25日 08時17分20秒 | 古都逍遥「京都篇」
 金色に輝く鳥居をもつ神社があると聞き、寒波が襲った平成20年の睦月、成人式を控えた土曜日にたずねてみた。ガイドには地下鉄東西線二条城駅前から徒歩3分とあったが、実際に歩いてみると約7分もかかった。二条城駅を降り立ち、堀川通りを東に向かって信号を渡り、烏丸御池通りを東山に向かって三筋目にあたる西洞院通りを北(左)に折れる(上がる)と、程なく住宅にまぎれるように金色の鳥居が現れる。昔から地元の人々に信仰されているお金の神社である。祀っているのは「金山毘古命」(かなやまひこ)で、日本で唯一というお金にりご利益がある神社として近年、口こみやインターネットを通じて有名になりつつある。訪ねたときも金融危機の影響もあるのだろうか多くの参拝者があった。資産運用の神として、また証券類や不動産、造作、転宅、方位、厄除け、更に旅行中の無事安全も護る大神として崇められているようだ。

 いちょうの絵馬には「宝くじが当たりますように」等の願い事が書かれていた。私は昨年、「安井金毘羅宮」(やすいこんぴらぐう)に取材を兼ねての参拝のおり、「縁切り縁結び碑(いし)」に願をかけたこともあり、ここでは賽銭を奉じて手を合わせただけにした。

 創始は、伊邪那岐、伊邪那美、御二柱神の皇子にして、金山毘古命を奉る五元陽交(天の位)の第一位の神で金乃神、金乃類を司る神として祀られたのが起こりと言われている。平家物語の作者が「ぬえ」の住み処としてふさわしい森と称したとも伝えられている。平安末期の安元3年(1178) の大火で洛中の3分の1が焼け、当神社も焼失したという。その後再建されたものの、富士山の大噴火があった翌年の宝永5年(1708)、天明8年(1788)、新撰組が池田屋事件で名をあげた元治元年(1864)など、度々の大火にすべて焼失した。

 現存する当神社の創建者田中庄吉は、現在の金光教の布教者である初代白神新一郎により金光教に入信し、京都で布教を行っていた。明治16年10月6日、金乃神の金にちなんだ、美濃の南宮大社の祭神金山彦命を祀る神社として再興し、「御金神社」と命名した。現在は、金光教との関わりもなくなり、「金神」の宮としての活動も行っていないとのことだが、元々信仰者の多いところに建てた神社のため、地元では親しまれているようだ。

 所在地:京都市中京区西洞院通御池上る押西洞院町618。
 交通:地下鉄東西線二条城前駅から徒歩7分。
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「称念寺」(しょうねんじ)

2009年01月17日 20時56分02秒 | 古都逍遥「京都篇」
 鶴の恩返しや蟹の恩返しなどの物語はあるが、「猫の恩返し」で知られる葵の紋のついたお寺があるというので取材してみた。
 そこは「称念寺」といい浄土宗知恩院派に属した寺号を本空山無量寿院といい、通称「猫寺」ともいわれ広く親しまれている。
 西陣の町並みに埋もれた様な寺で、路地を右に左にくねくねと探し歩いてようく見つけた。わかりやすい目標がなく土地感のない人はたぶん迷うことだろう。猫寺というくらいだから、さぞかし沢山の猫がいる猫屋敷かと思っていたが、意に反して静かなお寺で、すぐに目に付いたのが猫が伏せたような見事な松が配されていた。

 話を聞くと、猫寺名は伝説から生まれた俗称だったのだ。
 開基嶽誉上人が常陸国土浦城主松平信吉の帰依をえて慶長11年(1606)に建立されたもので、嶽誉上人は浄土宗捨世派の祖、称念上人に私淑景仰し、同上人を開山としてその名を冠し寺号を称念寺と定めた。当時300石の寺領を得て寺は栄えたという。しかし松平信吉が没すると共に、松平家と疎遠の仲となり、300石の寺領も途絶え、寺観は急激に色あせていく。

 信吉は元和6年(1620)8月1日に没し、当寺に葬られている。信吉の母は、徳川家康の御妹で信吉と家康公義兄弟に当り、当寺の寺紋として三ッ葵が許された。
 猫伝説について紹介しておくと、三代目の住職還誉上人の頃の話となるが、和尚は1匹のかわいい猫を飼っていた。寺禄を失った和尚の日課のほとんどは、その毎日を托鉢によ
る喜捨にたよるしかありませんでした。しかし、猫を愛した和尚は自分の食をけずっても愛猫を手放すことはなかった。

 そんなある日の名月の夜、和尚は疲れた足をひきずるようにして托鉢を終え寺へ帰ってきて、山門をくぐり本堂に近づいた時、ギョッとしてそこへ棒立ちになった。世にも美しい姫御前が優美な衣装を身にまとい月光をあびながら、扇をかざし優雅に舞っていた。本堂の障子には、月光により姫御前の後姿が愛猫の影として映し出されてた。愛猫の化身ときづくと和尚は、「自分はこんなに苦労しているのに、踊り浮かれている時ではあるまい」と立腹し、心ならずとも愛猫を追い出してしまった。
 姿を消した愛猫は数日後、和尚の夢枕に立ち、「明日、寺を訪れる武士を丁重にもてなせば寺は再び隆盛する」と告げた。翌朝その通りに松平家の武士が訪れ、亡くなった姫がこの寺に葬ってくれるよう遺言したと伝え、以後松平家と復縁した寺は以前にも増して栄えたという。

 和尚が境内に愛猫を偲んで植えたと伝えられる老松がある。一本の太い枝が地面と平行に20メートルにも及び、横にのびた姿は猫が伏した姿を表わすといい、猫松とも呼ばれている。山門は老朽化により平成10年に再建された。

 所在地:京都市上京区寺之内通浄福寺西入上る西熊町275。
 交通:ます京都駅より市バス206号系統(北大路回り)「乾隆校前(けんりゅうこうまえ)」下車、徒歩6分。
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 「安楽寿院」(あんらくじゅいん)

2009年01月11日 22時06分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 正月も近くなった師走29日、ぶらりと古刹取材に出かけた。
 お目当ては「安楽寿院」で、名神高速道路京都南インターチェンジに近い京都市伏見区竹田にある真言宗智山派の古刹で、山号を持たない寺院である。境内に接して鳥羽天皇と近衛天皇の陵がある。
 付近一帯は平安時代末期(11~12世紀)、院政の舞台となった鳥羽離宮の跡地である。

 鳥羽離宮(鳥羽殿)は、応徳3年(1086)、白河天皇が退位後の居所として造営を始めたもので、平安京の南に位置する鳥羽の地は桂川と鴨川の合流点にあたり、交通の要衝であるとともに風光明媚な土地でもあったという。東西約1・2~1.5km、南北約
1kmの中に御所、庭園、仏堂などがあった。その後、北殿、泉殿、馬場殿、東殿、田中殿などが相次いで建設され、白河・鳥羽・後白河の三代の院政の舞台となった。
 当時栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの地を訪れ、舟遊びや歌合わせなどに興じ、華やかな貴族文化の舞台になっていたという。離宮の東殿に保延3年(1137)に御堂が建てられ、保延5年(1139)に右衛門督藤原家成によって三重塔が建てられた。後に本御塔(ほんみとう)と呼ばれるこの塔は上皇が寿陵(生前に造る墓)として造らせたものであり、上皇(康治元年・1142年に落飾して法皇となる)が保元元年(1156)に没した際、この本御塔が墓所とされている。
 
 現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。当時の寺領は日本各地に膨大な荘園が寄進され、これらは安楽寿院領(後に娘の八条院子に引き継がれて八条院領と称される)として、天皇家(大覚寺統)の経済的基盤となっていた。
 現在茨城県から九州の間に散在し、最盛期には32国63ヶ荘に及んでいたという。
 その後、南北朝争乱により寺領の多くを失った。桃山時代になり豊臣秀吉より近辺の五百石分の寺領が保証され、江戸時代も徳川歴代将軍より寺領を安堵された。江戸期には12院5坊の塔頭を要する学山として多くの学匠を輩出しているという。幕末には安楽寿院が鳥羽・伏見の戦いの本営となった。

 重要文化財に指定されている「木造阿弥陀如来坐像」は、像高87.6cmの寄木造。平安時代末期に皇族・貴族に人気があったという定朝様(じょうちょうよう)の穏やかな趣が漂う仏像である。胸の中央に卍を刻むことから「卍阿弥陀」の称がある。光背の中心部分と台座の大部分も当初のものという。台座は各所に宝相華文を浮き彫りし、像表面だけでなく胎内にも金箔を押す入念な作である。台座内に天文23年(1554)の修理銘があり、そこに「西御塔本尊」とあることなどから、保延5年に建てられた三重塔(本御塔)の本尊として造られたものと推定されている。作者は不明とあるが、鳥羽離宮内の勝光明院などの造仏を手がけた仏師・賢円の作と推定されているようだ。

 鐘楼は慶長11年(1606)に豊臣秀頼の命により大修復されたときに建立されたもので、現在は柱、梁に当時の材を残すのみ。梵鐘は元禄5年(1692)に鋳造されたもので、除夜の鐘の時にのみ撞くと言う。
 大師堂は、慶長元年(1596)、山城、伏見に大地震が起き、新御塔が倒壊した。そのとき散在した材料で、とりあえず本尊を祀るために建てたものだという。現在も本尊の他、大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏像を安置している。

 石造五輪塔は、鎌倉時代の弘安10年(1287)の年号が刻まれており、3mもある堂々としたもので、鎌倉時代の典型的な優れた形の五輪塔で重要文化財に指定されている。観光寺ではないため境内は自由に出入りできる(仏像拝観は要事前申込み、075-601-4168)。当院から城南宮が近いため併せて散策されるとよい。

 所在地:京都市伏見区竹田中内畑町74。
 交通:近鉄京都線・京都市営地下鉄烏丸線竹田駅下車、徒歩約7分。
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