「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「法界寺」(ほうかいじ)

2007年08月30日 11時05分16秒 | 古都逍遥「京都篇」
 通称日野薬師とも言われる法界寺は、親鸞聖人、日野富子らが生誕した日野家の菩提寺で、弘仁13年(822)、藤原家宗が薬師如来を祀ったのが始まりで、永承6年(1051)、藤原氏の一族で文章博士(もんじょうはかせ)で後に出家した日野資業(ひのすけなり)が薬師堂を建立したのが始まりとされている。また、別の伝えもあり、藤原家宗が弘仁13年に最澄自作の薬師像を本尊とし、最澄を開基として一族の氏寺を建てたとするものもあるが、何れも定かではない。

 日野は、「方丈記」の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られており、かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野氏の領地であった。
 阿弥陀堂(国宝)は、鎌倉時代初期の建築で、承久3年(1221)の兵火で焼失後、間もない頃の建立と推定されている。方五間(正面、背面、両側面の柱間の数がいずれも五間)の堂の周囲に一間の裳階(もこし)をめぐらした形で、屋根は宝形造(ピラミッド形)で檜皮葺きである。

 宇治の平等院鳳凰堂、岩手県の中尊寺金色堂、三千院の往生極楽院と並び平安貴族が夢見た極楽浄土を形にしたものとして貴重である。
 内陣の柱や長押上の小壁には創建当時の絵画が残る。
 壁画は47面あり、内陣長押上の小壁に描かれた23面(飛天図10面、楽器・仏具図5面、阿弥陀如来像8面)と、その上部の壁に描かれた宝相華文(ほうそうげもん)24面からなる。板壁でなく土壁に描かれた壁画として稀少なものである。また四天柱(仏壇周囲に立つ四本の柱)にも、金剛界曼荼羅の諸仏や、十二天、迦陵頻伽などの絵画が残っているが、剥落・褪色がはなはだしく残念である。

 堂内には、平安時代の定朝様式の阿弥陀如来坐像(国宝・像高2.8㍍)が安置され、飛天の壁画(重要文化財)などで装飾されておりふくよかな童顔が心を和ませる。
本堂薬師堂(重要文化財)の本尊・薬師如来立像(重要文化財)は乳薬師と呼ばれ、安産、授乳の霊像として信仰されている。奈良県斑鳩町竜田にあった「伝燈寺」の本堂を移築したものといわれ、室町時代、康正2年(1456)の建築。「伝燈寺」については、斑鳩町の竜田神社付近にあったと伝えられている。

 内部にはいると、お寺の人が阿弥陀像や壁画などを懐中電灯で照らしながら丁寧な説明をしてくれる。

 所在地:京都府京都市伏見区日野西大道町19。
 交通:京都市営地下鉄石田駅、徒歩20分。京阪バス「日野薬師」下車徒歩3分。

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「福徳寺」(ふくとくじ)

2007年08月23日 00時39分55秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都市街地国道162号線を北上し、清滝川沿いの周山街道を車で走らせ、いくつかの峠とトンネルを抜けると周山地区に入る。更に北へ約10分ほど走ったところ、京北町(旧北桑田郡)集落「弓削下中」に、山を背にした静かな山間に「福徳寺」がある。まさに童謡にあるような山寺という佇まいである。

 福徳寺は、和銅4年(711)に行基が現在地から北数百メートルの大谷山の口に法相宗として開創し、聖武天皇の勅願により薬師七重塔が建立され、弓削寺と称した。応永3年(1396)焼失し、再建されたが、天正7年(1579)明智光秀が周山城を築くにあたって、本寺を破却して城の用材に充てたという。その後、元和元年(1615)京北町字塩田にある曹洞宗永林寺開山居山桂宅大和尚が富春庵と称する小さな禅庵を建てたことに始まる。亨保7年(1722)恵音禅智大和尚が堂宇を整備したが、安永8年(1779)焼失、翌九年現堂宇が再建された。福徳寺という寺名は明治15年(1882)から
のこと。昭和50年(1975)保存庫を建立、そこに安置の7体の仏像は平安末期の作で、うち3体は、昭和25年(1950)重要文化財に指定された。また、黒塗りに銀の面取りした障子と九重の守の版木も貴重な文化財である。

 寺宝は、薬師如来像(国重文)、持国天像(同)、増長天像(同)、如来形坐像2体、版本大般若経600巻と釈迦十六善神画像、桃山時代の障子四枚、道鏡の供養塔、九重の守の版木。事前に連絡すれば見学できる。また境内には、弓削道鏡塚と伝えられる五輪塔がある。

 花の寺としても楽しめる所で、季節により、桜、紫陽花、蓮、紅葉が美しい。何と言っても本堂の前庭にある、京都市の天然記念物に指定された樹齢約370年と言われる枝垂れ桜は、地元では「かすみ桜」の愛称で親しまれ、京都の桜の穴場的名所といえる。胸高幹周は2.72㍍、樹高10㍍の古木で、一重のヒガンシダレ。慶長19年(1614)に移植され、古くから福徳寺のシンボル的な存在となっている。また、門に至る参道は梅雨時にはアジサイで彩られる。

 所在地:京都市右京区京北下中字寺ノ下15。
 交通:京都駅からJRバスで「周山」下車。京北ふるさとバスに乗り換えて10分ほどの「下中」で下車、徒歩約5分。京都駅からバス路線で合計約2時間。

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「下御霊神社」(しもごれいじんじゃ)

2007年08月15日 17時48分10秒 | 古都逍遥「京都篇」
 寺町通りを丸太町からすぐ南へ入った場所にある神社で、大同2年(807)藤原仲成の陰謀の犠牲となり、川原寺に幽閉され自殺した桓武天皇第3皇子伊予親王と、その母藤原吉子の霊を慰めるため、承和6年(839)出雲路に創建された。

 上御霊神社(上京区)とともに皇室の産土神として崇拝され、現在地に移ったのは豊臣秀吉の都市改造によるもので天正18年(1590)。
 本殿は、寛政2年(1790)宮中の賢所御殿を移築したもの。また表門は皇居の建礼門を移したものという。

 歴史の長い京都には多くの怨霊が存在し、それらを鎮める祠(ほこら)も数多い。下御霊神社の祭神は、長岡京遷都に関連して起こった藤原種継暗殺事件に関わったとして幽閉され死去した廃太子早良親王。平城天皇即位に際して謀反の疑いを受け自殺した伊予親王と、その母の藤原吉子。皇太子恒貞親王を擁して謀反をはかり、伊豆に流された橘逸勢。これに続いて謀反の罪に問われ同じく伊豆に流された文室宮出麻呂。九州に左遷後反乱を起こして殺された藤原広詞。以上六座の祭神と吉備真備と菅原道真の二座神を勧請した八祭神が、八所御霊として今も祀られている。

 神門を入れば檜皮葺きの舞殿が中に御幣を立てて静である。向拝を出す中門を挟んでの本殿は瑞垣までも檜皮葺きで歴史が止まる感がする。本殿横には内宮に外宮を置き両脇に八幡神と春日神が祀られている。本殿は江戸時代の天明大火後の仮皇居内侍所を下賜され、京都市指定有形文化財の指定を受けている。

 境内には、下御霊名水が井戸からくみ上げられており、人々が水を汲みに来ていた。鎌倉中期、ここは西園寺実氏の屋敷常盤井殿があった。屋敷内には「常盤井」という水が湧いていたと伝えられ、その名水が今も絶えず湧き出でているという。私も1口、命の霊水をゴクリと飲み込み、無病息災を祈った。

 所在地:京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町。 
 交通:地下鉄丸太町駅より東へ徒歩10分。京阪丸太町駅より西へ徒歩8分。


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「木嶋坐天照魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

2007年08月09日 07時46分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東映映画村かある太秦の花園駅に近くに、京都市内で最古の神社がある聞き出かけてみた。駅からはかなり歩き、ちょっとわかりにくいところに入り口がある。まわりにうっそうと茂る木々はこの神社の歴史を物語っていた。

 創建は不明だが、続日本紀の大宝元年(701)の記録に「木島神」の名があることから、それ以前の創建であると考えられる。
 本殿の東側に織物の祖神をまつる蚕養神社があることことより、「蚕ノ社(かいこのやしろ)」とも呼ばれており、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うかやぶきあわずのみこと)を祀っている。

 蚕の社と呼ばれるのは、摂社の・養蚕こがい神社にちなんだ呼び名で、平安京建設に尽力した秦始皇帝の後裔と称する融通王(弓月君:ユンズノキミ)を始祖とする渡来人「秦氏」とのゆかりは深い。
 社前に「亨保6年(1721)銘の常夜灯には、磐座宮と刻まれているので、松尾神社(建造物以前より自然崇拝あり)と同様に古代よりこの地にには磐座信仰があったとみられる。境内には、他に三井家の祖・越後守高安を祀る顕あき名神社、この付近で自殺した承久ノ乱に後鳥羽上皇方だった三浦胤義父子を祀る魂鎮神社や38所神社、白滝稲荷社、もと木島里このしまのさとにあった椿丘神社などの末社がある。

 その蚕の社のなかでも興味を引くのは、3つ鳥居(3柱みはしら鳥居)である。この鳥居は京都三鳥居のひとつとされており、3本の柱を3つの島木と貫(ぬき)でつないだ神明型の石鳥居で、真ん中には組石の神座かみくらが作られ、その狭い空間が凝縮された聖域として三方から拝めるようになっている。創建年代も不明、何の為に建てられたかも不明で、石柱の銘から天保2年(1831)に再興されたもので、以前は3ツ組の木柱の鳥
居だったという。もともと鳥居の原型は、古代インドの塔を囲む垣の門「トラーナ」説、中国の宮城説、陵墓の前に建てる標柱「華表かひょう」説、朝鮮やボルネオ地方の「門」由来説などさまざである。

 この鳥居の泉(組石の神座)から湧水が流れ出て境内に「元糺もとただす」の池を作っているが、この池は清らかな湧水が年中たえることなく、行場とされたこともあったという。「元糺」という呼称が語るように、下鴨神社の「糺の森」の名はここから移したのこと。元糺とは、それを意味しており、賀茂氏と秦氏の関係が深かったことを物語っている。本殿の西にある三方正面の石鳥居にも「元糺太神」の刻銘がある。

 もともと蚕ノ社(木島神社)は、祈雨の神として古くから信仰され、平安京造営以後には朝廷から祈雨の奉幣が行なわれ、貞観年間に正五位、長久年間には正一位が授けられている。
 平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』巻2には、「金の御岳は一天下、金剛蔵王釈迦弥勒、稲荷も八幡も木島も、人の参らぬ時ぞなき、太秦の薬師がもとへ行く麿を、しきりにとどむる木の島の神」と、伏見稲荷や石清水八幡、太秦(広隆寺)の薬師とならぶ木島神社の賑いぶりが歌われている。

 所在地:京都市右京区太秦森ケ東町50。
 交通:JR嵯峨野線(山陰本線)花園駅より徒歩10分。


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「行願寺」(ぎょうがんじ)

2007年08月02日 07時26分55秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「花を見て いまは望みも行堂の 
      庭の千種も 盛りなるらん」(ご詠歌)

 行願寺(革堂)は、寺町通りの東側と竹屋町通のと南北の突き当たりにあります。京都の古い民家や商店と軒を連ね、寺町は現在でもお茶や筆墨、古書、古道具を扱う老舗が多く、商店街から足を踏み入れると落ち着いた雰囲気の本堂がある。賑やかな通りの内に建っており、通りを歩いても塀に囲まれた御堂は見えず、山門に来て初めて寺院と判る。京都の七福神めぐりの寿老人の札所にもなっている。

 寺伝によると、開山の行円上人はもと猟師。山中で射止めた雌シカの腹から子ジカが生まれたのを見て、殺生を悔い仏門に入った上人は、諸国の霊山を修業して京都に来往し、平安中期の寛弘元年(1004) 、一条小川(上京区)あたりで一宇を設け千手観音菩薩を安置したのが行願寺の起源。一条小川にあったことから「一条北辺堂」と呼ばれていたという。西国観音霊場の第19番札所として全国に知られる名刹。度々の戦火で焼失し、都度、再建され、宝永5年(1708)現在地に移転している。

 上人が鹿の皮で法衣を作り、裏に先手陀羅尼経を書いてこれをいつも身につけ、経文をとなえながら市内を歩き、人にも読経を勧めました。人々が革聖(かわのひじり)とか皮上人と呼んだことから一条北辺堂(現在は中京区)を革堂と呼んだ。

 上人は出家以前から観音を信仰していたが信仰が深めるにつれ、先手観音像を刻みたいという思いがつのり、夢の中で賀茂社の境内にふさわしい霊木があるというお告げを受けた。
  早速これをもらい受け、高さ2㍍半の先手観音像を作り上げ、これを本尊とし安置した。
 
 所在地:京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町。
 交通:京阪電車 丸太町下車徒歩10分、市バス「河原町丸太町」下車徒歩3分。



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