「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「今井町」(いまいちょう)

2011年06月18日 07時29分41秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 今井町は戦国時代の天文年間(1532~55)、一向宗の今井兵部が称念寺を開き、独自の自治組織を持つ寺内町を建設したいたことに始まる。乱世のため町の周囲に濠や土塁をめぐらせた環濠集落として発展した。織田信長に降伏後は商業町として賑わい、江戸時代は町年寄の合議制で運営され、堺と並ぶ自治都市として「海の堺、陸の今井」と呼ばれた。両替商、肥料商、酒造業さらには、木綿業などにより経済的に栄えた。

 周囲を濠と土居で囲み、9つの門を開いた環濠集落の形態をとっており、旧環濠内には、今なお約650戸の江戸以降の伝統的な様式を保つ町家が古い町割りと相まって残存しており、これほど整った地区は全国的にも例を見ない。現在では濠は一部を残すだけだが、町割りは昔のままで道はどれも細く、ところどころに設けた「食い違いの道」により侵入者をかく乱し、一方、味方が自由に動けるよう住民しか知らない露地を縦横に走らせている。

 町は平成5年12月に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。現在旧環濠内にある古い様式をもつ民家は全体の8割近くをしめており、このうち重要文化財に指定された民家が八軒にものぼる。
 まず、近鉄八木西口駅から南に歩き蘇武橋を渡って、飛鳥川沿いを南に下った所に、2階建て和洋折衷の明治建築の今井町並み交流センター「華甍」(はないらか)がある。ここから元の道に戻り、途中で西に曲がると、ここでは珍しい完全な2階建て、19世紀前半の建物の「木家」に行きつく。

 この先を進むと「河合家」で、東側が入母屋造りで、西側が切り妻造りになっており、玄関先には杉玉が下がり、今でも代々からの造り酒屋が続いている。
 家の北側の道を西に少し歩いて行くと「米谷家」で、土間には、かまど、流しなどが残っている。この界隈にはこの他、「音村家」、「上田家」、「今井まちや館」、「中橋家」、そしての今井町建設の中心となった「称念寺」(次回に紹介)があり、町はこの寺を中心に寺内町として発達した。

 さらに北に向かって角を西に折れると、太い縦格子が印象的な、約300年前に建てられた町屋を利用した茶屋の「古伊」がある。ここいらで一服して、抹茶やぜんざいを楽しみながら古に思いを馳せてはいかがだろう。
 ではお薦めの建物などを紹介しよう。

■今西家(重文)
 代々今井町の惣年寄の筆頭を勤めた家系で、もとは十市氏の一族、川井権兵衛清長が十市氏に従って、永禄9年(1566)に移住し、3代目より今西姓を名乗ったという。西端には堺に向える西口門が開かれ番人小屋がおかれていた。建物は、棟札・鬼亙銘より、慶安3年(1650)の建設といわれ、外壁を白漆喰塗ごめとし、大棟の両端に段違いに小棟を付け、入母屋造りの破風を前後くい違いにみせ本瓦で葺いて堂々と、民家というより城郭を思わせ、「八つ棟造り」として知られており、八棟造りの民家は、江戸時代でもそう多くはなかったいうから、この造りが許されたのは、この地の町人の力の大きさの現れであったいえよう。
 2階正面の壁には、向かって右方に川の字を井桁枠で囲み川井氏の定紋を入れ、左には菱形三段に重ねた旗印を付けている。定紋・旗印・屋根の形も威厳がある。 
 内部は、東側に二列六間取りの部屋をとり、西側は広い土間とし、北面に大戸を開き、西北隅に「しもみせ」をとる今井町民家の六間取りの平面形式をとっている。

■米谷家(同)
「米忠」の屋号をもつ元は金物商で、寛文2年(1662)に建設。屋根は入母屋本瓦葺、2階正面壁に、丸に木の字の紋がある。2本の大黒柱、ふんだんに木材を使っている。18世紀中期の建物で、後に土蔵や蔵前座敷を増築している。内部は他家と異なる五間取りで、土間には立派なかまどや「煙返し」が取り付けられるなど農家風のイメージがある。

■河合家(同)
 屋号は「上品寺屋」。18世紀中頃に建てられ、早い時期の2階建て町家。屋根の東側は入母屋造、西側は切妻造りの本瓦葺。江戸時代創業の造り酒屋。当時の店構えを今に残している。今も酒造業を営み、軒先には酒屋の看板となる杉玉が吊されている。

■音村家(同)
 17世紀後半の建物。屋根は切妻本瓦葺平入。主屋西北隅に2間続きの「つのざしき」、西側に「ざしき」がある。西側道路に門を開き、直接「ざしき」に通じる。

■中橋家(同)
 18後半に建てられた。部屋は「みせのま」「ぶつま」境を食違いとした六間取りで、「ざしき」「だいどころ」境も、壁で仕切られ、書院風の飾りもなく古い商屋の特色が見られる。

■上田家(同)
 延亨元年(1744)頃のの建築といわれ、今西家などとならび惣年寄りを勤めた家柄。道路から半間後退し、2階は低い。間仕切り装置が多彩。大戸口は「すりあげ戸」奥の部屋は袖壁に戸を引き込む帳台構えがある。

■今井まちや館
本町筋のほぼ中央に佇む18世紀初期の町家。明治以降は空き家で老朽化していたが復元され、資料館として公開されている。1階には土間や「しもみせ」がある、二列六間という大型民家の間取。周りの敷居が高くなった「帳台構え」、必要に応じて全開、半開できる「あげ戸」など、当時の建築手法を身近に見ることができる。

 所在地:橿原市今井町。
 交通:近鉄橿原線で八木西口駅下車、徒歩5分。JR桜井線でJR畝傍駅下車、徒歩10分。
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 「喜光寺」(きこうじ)

2011年06月11日 17時44分34秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 東大寺の大仏殿建造の参考にしたと伝わる本堂があることから「試みの大仏殿」として知られている喜光寺は、養老5年(721)、東大寺の大仏建立の勧進を行った行基が(668-749)、元明天皇の勅願で創建したと。その地が菅原道真の生誕地である菅原の里にあったことから「菅原寺」とも呼ばれたという。行基はこの喜光寺で遷化し、生駒市の「竹林寺」に埋葬された。
 伝承によれば、聖武天皇の世、天平13年(741)の「恭仁京」(くにきょう)遷都を境に、行基とその弟子たちは新京造営・大仏建立といった政府の事業に参加するようになった。そのため、聖武天皇は行基への傾倒を深め、「紫香楽」(しらき)遷都直後の天平17年(745)正月に大僧正に任じている。また天平20年(748)には菅原寺に参詣しており、そのとき本尊が不思議な光を放ったことを喜び、天皇は寺名を「喜光寺」と改名させたという。

 明応8年(1499)に火災で焼失。その後、天文13年(1544)に再建した際に、逆に東大寺大仏殿の10分の1サイズで建てられたという。
 中世には興福寺の末寺となり、直接には興福寺の塔頭の1つであった一乗院に属し宗派は法相宗で、明治時代より薬師寺唯一の別格本山となっている。

 本堂は単層、寄棟造りで重要文化財に指定されている。外見からは2階建てに見えるが、大仏殿や薬師寺・東塔と同様に軒のように張り出した「裳腰(もこし)」がついているだけで、天井が高い単層になっており、本堂全体が吹き抜けのように高くひらけているため、広々と感じる。現在、この本堂には平安時代に造られた像高2.33mの堂々とした丈六の「阿弥陀如来坐像」(重文)が本尊として祀られている。木彫り寄せ木作りの仏像であるが、顔の表情が実に静かで穏やかである。

 両脇には観自在菩薩と勢至菩薩を従えている。いずれも像の高さが1・6mほどの坐像で、南北朝時代に作られた作品である。堂内に入って近くで拝観できないのが残念だが、本尊と同様に表情の穏やかな表情で笑みを浮かべている。見つめているだけで、心を和ませてくれる。

 境内は、石仏が多く見られる。本堂の横には釈迦初転法輪像がある。その前には、当山の住職がインド仏跡巡礼を行った際に、ブッタガヤの聖地にある仏足石を前正覚山の石に写して持ち帰った仏足石が置かれている。釈迦初転法輪像の横に、不動明王や観音菩薩、地蔵菩薩、阿弥陀如来など47体の石仏が置かれている。いずれも江戸時代に造られたもので、境内に散在していたもの一カ所に集めて奉安しているという。

 また、極楽浄土の花として蓮が栽培されており、その数は約2百種にも及ぶという。蓮の開花は6月下旬から8月上旬とのことで、訪れた時は残念ながらその眺めることはできなかった。

 本堂裏手には、小さな「弁天堂」があり、本尊の「宇賀神王」は秘仏で、毎年7月下旬にのみ公開される。
 さらにその奥には真新しい「写経道場」がある。納経料2千円で、「いろは写経」が体験できるので、写経をしながら心を静めてはいかがだろう。

 南大門は、 平成22年5月に450年ぶりに再建されたばかりで、高さと幅は約12m、奥行約9m。祀られている仁王像は、文化勲章受章者の彫刻家・中村晋也さんの作品。
 また、境内には石川郎女が詠んだ『大き海の水底深く思ひつつ裳引き平らしし菅原の里』と、会津八一の、『ひとりきて かなしむてらの しろかべに 汽車のひびきの ゆきかへりつゝ』の歌碑がある。

 所在地:奈良市菅原町508。
 交通:近鉄「尼ヶ辻駅」より徒歩10分、西大寺駅より徒歩20分>





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 「橿原神宮」(かしはらじんぐう)

2011年06月03日 07時34分30秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 初代「神武天皇」を祀っている橿原神宮は、御祭神・神武天皇が畝傍山の東南・橿原の地に宮を建てた即位の礼を行った宮址に、明治23年に創建された。
 我が国建国の始祖となった神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛皇后(ひめたたらいすずひめ)が祀られている。

 神武天皇は、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅を承け、天業をおし弘めようと、九州の日向(ひゅうが)国の高千穂の宮から東遷の壮途に就かれた。そして、国内を統一し、畝傍(うねび)山の東南・橿原の地に皇居を営んで、即位の礼をあげられた。明治の時代になり、天皇の御聖徳を景仰して、この橿原宮跡に神宮創建の請願が民間有志から起こり、明治天皇によって本殿として元京都御所の賢所(かしこどころ)、拝殿として同じく神嘉殿(しんかでん)が献進された。本殿は、安政二年の建造で重要文化財に指定されている。昭和15年には紀元2600年記念の国家事業として、全国各地からの勤労奉仕も加わって宮域整備拡張事業が行われ、本殿・拝殿(現在の神楽殿)の修復と幣殿・内拝殿・外拝殿・廻廊その他附属建物が新たに造営された。いずれも素木造(しらきづくり)の雄大豪壮なたたずまいである。

 幣殿(へいでん)は、祭典の際に神饌(しんせん)を供え、祝詞(のりと)を奏上する場所で、そのため、屋根に千木、棟の上に鰹木を置くなどの様式をとっている。2月11日例祭(紀元祭)の際には、勅使が幣帛(へいはく)を奉献する。

 内拝殿(ないはいでん)は紀元祭その他重要な祭典に使用され拝殿で、内拝殿の屋根越しに幣殿の千木・鰹木(ちぎ・かつおぎ)が金色に輝いている。内拝殿と外拝殿との間には、周囲を廻廊に囲まれた外院斎庭(げいんゆにわ)がある。広さは約970坪と広大である。一方、昭和14年に完成した外拝殿(げはいでん)は、両脇に長い廻廊を連ねた入母屋造り。

 橿原神宮の年末年始の名物ともなっているのが「ジャンボ絵馬」である。高さ4.5m、幅5.4m、面積は畳14枚分もあり、実際の絵馬の1600倍という特大サイズ。干支の絵を描く人も何代か変遷があり、ここ数年は日本画家の上村淳之さんが描いている。毎年この前で写真を撮影し年賀状に使用している人も多いと聞く。

 所在地:奈良県橿原市久米町934。
 交通:近鉄「橿原神宮前駅」下車、徒歩5分。

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