「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「東大寺」(とうだいじ)

2012年05月26日 09時17分25秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 三笠山麓に燦然と鴟尾(しび)を輝かせ凛とした壮大な大仏殿がそびえる。この大仏殿を金堂とする伽藍が、華厳宗大本山「東大寺」である。
 神亀5年(728)、聖武天皇の皇太子・基(もとい)王の供養のため建立した金鐘寺が華厳宗大本山東大寺の始まりとされ、741年に聖武天皇が護国信仰に基づいて国分寺の建立を命じらた際、金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。天平15年(743)に聖武天皇が大仏造顕の詔を公布、天平17年(745)に金光明寺にて盧舎那大仏の造営が開始された、天平19年(747)9月から天平勝宝元年(749)10月まで、3ヶ年8度の鋳継ぎを経て大仏本体の鋳造が完了、天平勝宝3年(751)に螺髪の鋳造並びに頭部への取り付けが終わり、天平19年より平行して工事が進められていた大仏殿もこの年ほぼ形を整え、天平勝宝4年(752)4月に開眼供養会(かいげんくようえ)が行われ、東大寺となった。寺名の謂れは、平城京の東に建つ大寺という意味で「東の大寺」と呼ばれるようになったと伝わる。

 大仏開眼供養会は、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后の行幸のもと、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)が聖武上皇に代わって開眼の導師をつとめ、『華厳経』が盧舎那仏宝前に講読、その光景は、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛なるはあらず(『続日本紀』)」と記されるほどの法要であったという。

 光明皇后は聖武天皇の崩御にともなって、天皇の生前遺愛の品々や大仏開眼供養会に関わる法具類等、天平文化を如実に物語る様々な品を東大寺盧舎那仏に献納した。これらは正倉院(現在は宮内庁所管)に納められ、兵火の難をものがれ今日まで伝えられている。

 盧舎那仏(大仏)は開眼供養が行なわれた後、西塔や東塔、中門、講堂、三面僧坊が、造東大寺司の手によって造営され、東大寺としての七堂伽藍が完成したのは延暦8年(789)になる。その後、治承4年(1180)源平抗争さなか、平重衡の軍勢が南都を攻め大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼失。伽藍の復興造営は俊乗房重源によって翌年から着手され、全国を勧進する一方で源頼朝公の援助も得て復興を進め、文治元年(1185)には後白河法皇を導師として大仏の開眼供養を挙行、建久6年(1195)には後鳥羽上皇や源頼朝の臨席のなか大仏殿落慶供養を行っている。また永禄10年(1567)には永禄の変を起こした松永久秀(=弾正/だんじょう)によって伽藍が焼失。その後100年余りの歳月を経た江戸時代に、公慶上人が徳川幕府に働きかけ、また大勧進職として諸国を勧進し庶民の結縁を求めるとともに、諸大名にも協力を仰いで東大寺の再建造営に取りかかった結果、五代将軍綱吉と桂昌院、柳沢吉保らの援助も得られ、大仏開眼供養を元禄5年(1692)に、再建大仏殿の落慶供養を宝永6年(1709)に行い、以後伽藍の整備再建は明治維新に到るまで続けられ、現在に至り、平成10年(1998)に世界文化遺産に登録された。

◇大仏殿(国宝)
東大寺の金堂で一重裳階つき寄棟造り・本瓦葺き、正面銅版葺き唐破風つきで、東西57.012m、南北50.480m、高さ48.742mにも及ぶ世界最大の木造建築物。

◇鐘楼(国宝)
 承元年間(1207~10)に栄西(ようさい)禅師が再建したもので、重さ26.3tもある梵鐘は東大寺創建当初のもので、「奈良太郎」として愛され、日本三名鐘のひとつに数えられている。

◇南大門(国宝)
 東大寺の正門で、天平創建時の門は平安時代に大風で倒れた。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人(ちょうげんしょうにん)が再建したもので、正治元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)には門内に安置する仁王像とともに竣功した。入母屋造、五間三戸二重門で、屋根裏まで達する大円柱18本は21mにも及び、門の高さは基壇上25.46mもある国内最大の山門。大華厳寺の扁額(縦1.65m、横4.5m)が懸っており、東大寺の別名「大華厳寺」を開基の聖武天皇の写経から文字をとったものという。平成18年(2006)に重源上人の没後800年の法要「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて復元された。門の両側に立っている金剛力士像は、鎌倉時代を代表する仏師運慶・快慶の作によるもので、身の丈8mを超える。

◇正倉院(国宝)
 三角の木材を組み合わせた校倉造り、高床式で知られる。聖武天皇遺愛の品々を納めた北倉・中倉、東大寺の年中行事用の仏具などを納めた南倉に分かれ、三ツ倉とも称されていた。

◇転害門(国宝)
 三間一戸八脚門形式の門で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構。源頼朝を刺し殺そうとして平景清がひそんだとの伝説から景清門ともいわれている。

◇開山堂(国宝)
 東大寺の初代別当で東大寺の創建に尽力した良弁(ろうべん)僧正をまつる。内陣中央に八角造の厨子が据えられ、国宝の僧正像が安置されている。

◇大湯屋(重文)
 正面が入母屋造、背面が切妻造になっており、重源上人が建立した浴場。鋳物師の草部(くさかべ)是助が建久8年(1197)に造った大きな鉄製の湯船が据えられており、中世の浴室の様子がわかる。

◇法華堂(三月堂)(国宝)
 天平12年(740)から19年までの創建と考えられている東大寺最古の建物。毎年3月に法華会が行われたことから、のちに法華堂と呼ばれるようになった。東大寺の前身である金鐘寺の主要伽藍のひとつで、ここで華厳経が日本で初めて講義されたともいわれている。

 所在地:奈良市雑司町406-1。
 交通:JR・近鉄奈良駅より市内循環バスで「大仏殿春日大社前」下車、徒歩5分。

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「豊臣秀長大納言塚」(とよとみひでながだいなごんずか)

2012年05月22日 06時57分50秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 近鉄郡山駅より西へ少し行き、坂を登りきった辺りに教会がある。そこから南下して坂を下ると、右手に入って塀を回り正面に出ると、豊臣秀吉の弟である大和大納言こと豊臣秀長の墓「大納言塚」がある。昭和50年(1975)10月2日、大和郡山市指定文化財(史跡)となり管理されている。

 秀長(1540~91)は、秀吉の異父弟で、戦国時代に活躍した武将である。天正13年(1585)、和泉・紀伊・大和におよぶ100万石の所領を有し郡山城主となり、「箱本」制度(注)という独特な自治を行い、城下の商工業を育成し繁栄を築いた。

 天正19年(1591)1月22日、城内で没した秀長(享年51歳)は、ここに葬られた。当初、今の芦ヶ池近くに豊臣秀吉が菩提寺大光院を建立し、院主に京都大徳寺の古渓和尚を当てて墓地の管理と菩提を弔った。
 豊臣家が滅んだあと、大光院は藤堂高虎によって大徳寺の塔頭として京都に移築され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託された。その後墓地は荒廃したが、安永6年(1777)、位牌菩提寺春岳院の僧、栄隆や訓祥が郡山町中の協力を得て、外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立した。五輪塔は高さ約2メートルで、地輪の表面には、戒名「大光院殿前亜相春岳祥栄大居士」と刻し、台座には「春岳院現住法院訓祥、郡山内町中建立之」と刻まれている。五輪塔の手前には、「お願いの砂」がある。蓋をあけると砂が入っていて、名前と願い事をとなえながら、この砂を供えると願い事がかなうらしい。

 郡山城は、天正6~7年(1578~79)に筒井順慶が縄張りをおこない、同11年に天守閣を完成、13年、豊臣秀長が入城して、さらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ城下町を完成。

 大阪夏の陣以降、水野勝成がさらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが、城内でそれ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。

 (注)「箱本制度」:商工業保護の政策として同業者を町に集め、営業上の独占権を認め、町々にそれぞれの特許状を与えて保護した。こうした特権を主張する根拠となる文書を朱印箱に納め、封印をして1ヶ月交代で本町以下13町を持ちまわりする。当たった月の町が「箱本」となり、この朱印箱を町内の会所に置いて、表に長さ2尺の紺地木綿に白地で「箱本」と染め抜いた小旗を2間余りの竿に付けて立てる習わしであった。
 それぞれの町には「年寄・月行事・丁代」の世話役がいて町の自治に当たったが、「箱本」になった町では、その町の年寄りが1ヶ月間、全責任をもって郡山町中全体の世話をする。重要な問題の時は、跡・先・当箱本の三者で処理することになっていた。各町が平等に町政に参与する仕組みで、世襲のような独裁的色彩の少ないのも郡山箱本の特色であったようだ。

 所在地:奈良県大和郡山市箕山町14。
 交通:近鉄近鉄郡山駅から徒歩15分。

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「大野寺」(おおのでら)

2012年05月12日 15時05分29秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 室生寺への入口に位置する寺院で、681年に修験道の開祖とされる「役行者」によって創建されたといわれ、元は室生寺の西門としての役割があったという。

 当寺は磨崖仏(まがいぶつ)で知られた小寺だが、樹齢300年とされる2本のしだれ桜と、紅しだれ桜30本が咲き誇る、桜の寺としても有名で、寺門をくぐると巨木のしだれ桜が出迎える。本堂よりのところにも1本の大きなしだれ桜があり、その奥に見える桜と並ぶ姿はなかなか壮観である。

 宇陀川を挟んだ向かい側の断崖に刻まれた、身の丈11.5mもある「弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)」は圧巻で、興福寺の僧・雅縁の発願により、承元元年(1207年)から制作が開始され、同3年に後鳥羽上皇臨席のもと開眼供養が行われた。作者は宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ/いのゆきすえ)の一派といわれており、言い伝えでは、山城国笠置山にあった弥勒の大石仏(現在は光背のみが残る)を模したものという。
 岩に挙身光式の凹みを切り込み、その内面を水磨きして線で描いたもので、遠目にはよく見にくいが、夕日があたる
とクッキリと浮かび上がって見えるのだそうだ。

 境内に入らなくてもその姿は拝められるが、境内「遙拝所(ようはいじょ)」からの姿も見ておきたい。
磨崖仏の荒々しさが和らいで、やや穏やかな印象を受けるだろう。
 このほか本堂には、秘仏本尊の「木造弥勒菩薩立像」と「木像地蔵菩薩像」(重文・旧国宝)が安置されているが、拝観はできない。「木像地蔵菩薩像」は別名「身代わり地蔵」と言われ、無実の娘が火あぶりされそうになった時、身代わりとなって半身が焼けたという伝説がある。

 所在地:宇陀市室生区大野1680。
 交通:近鉄大阪線「室生口大野駅」から徒歩5分。
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