「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「興福寺」(こうふくじ)

2012年11月13日 23時37分50秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 南都六宗の一つで、法相宗の大本山の興福寺は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。創建は、鎌足(614-669年)夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が起源とされている。

 壬申の乱のあった天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称したが、和銅3年(710)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659-720年)が平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けたもので、この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始され、その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

 当寺は、創建以来たびたび火災に見まわれ、その都度再建が繰り返されたが、中でも治承4年(1180)、源平の争いの最中、平重衡の兵火(南都焼討)による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍および仏像・宝物類が焼失しており、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に当寺を拠点とした運慶や運慶派仏師の手になる仏像が多い。江戸時代の享保2年(1717)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されなかった。
 では建造物などを紹介しよう。

■五重塔(ごじゅうのとう)本瓦葺(室町時代)
 天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔。三手先斗を用いており、創建当初の高さは約45mで、当時日本で最も高い塔であったという。各層には水晶の小塔と垢浄光陀羅尼(くじょうこうだらに)経が、また初層には4天柱の東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に弥勒浄土変が安置されていた。
現在でもその伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が安置されている。

■三重塔(さんじゅうのとう)本瓦葺(鎌倉時代)
 康治2年(1143)崇徳(すとく)天皇の中宮皇嘉門院(こうかもんいん)聖子が建て、治承4年(1180)に焼失したが、ほどなく再建、北円堂とともに当寺で最古の建物(高さ19m)である。木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝える。初層(しょそう)内部の四天柱(してんばしら)をX状に結ぶ板には東方に薬師如来像、南に釈迦如来像、西に阿弥陀如来像、北に弥勒如来像を各1000体描き、さらに4天柱や長押(なげし)、外陣(げじん)の柱や扉、板壁には宝相華文や楼閣(ろうかく)、仏や菩薩など浄土の景色、あるいは人物などを描く。

■中金堂(ちゅうこんどう)
 旧中金堂は寄棟造、桁行7間・梁行4間、屋根は2重で下の屋根は裳階(もこし)がつき、規模は当時の奈良朝寺院の中でも第1級だった。丈六釈迦如来像を中心に、薬王(やくおう)・薬上菩薩(やくじょうぼさつ)像と2体の11面観音菩薩像の4体を脇侍(わきじ)に従え、四天王像、さらに養老5年(721)に橘三千代が夫不比等の1周忌に造立した弥勒浄土像も安置されていた。6回の焼失・再建の後享保2年(1717)に焼失。約100年後の文政2年(1819)に仮堂として再建されたが、近年老朽化が進んだため、北の講堂跡に仮金堂(旧薬師寺金堂 室町時代後期 寄棟造 桁行9間梁行6間本瓦葺)が移建された。中金堂が復興されるまで、興福寺の金堂としての役目を持つ。現在、解体が終了し、昨年立柱式も行われ天平様式の復元が進められている。

■東金堂(とうこんどう)寄棟造・本瓦葺(室町時代)
 中金堂の東にある金堂で、神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造立。
 薬師如来像を本尊とし日光・月光菩薩像、四天王像などが安置され、また創建当初は床に緑色の(タイル)が敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界があらわされていた。以来6度もの被災、再建を繰り返し、今の建物は室町時代応永22年(1415)に再建されたもの。

■南円堂(なんえんどう)八角円堂・向拝付・本瓦葺(江戸時代)
 弘仁4年(813)藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)追善のために建立したとされ、不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像を安置。現在のは創建以来4度目の建物で、寛保元年(1741)に柱が立てられた。

■北円堂(ほくえんどう)八角円堂・本瓦葺(鎌倉時代)
 現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤原不比等の1周忌にあたる養老5年(721)8月に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建立。華麗で力強く、鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の姿をよく残し、三手先斗(みてさきときょう)、軒は3軒、地垂木(ぢたるき)は6角の断面にする。内陣は天蓋が輝き、組物間の小壁には笈形(おいがた)が彩色される。普段は未公開で春と秋に特別公開される。

■阿修羅像(あしゅらぞう)乾漆造・彩色(奈良時代)
像は三面六臂(さんめんろっぴ)、上半身裸で、上帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけ、胸飾りと臂釧や腕釧をつけ、裳をまとい、板金剛を履く。 像高153.4cm。

■板彫十二神将立像(いたぼりじゅうにしんしょうりゅうぞう)桧材・一材製・板彫り・彩色(平安時代) 正面を向く像1体、右を向く像5体、左を向く像6体で、12面がほぼ完形で伝わる。施された彩色は剥落が激しく素地をみせる。迷企羅(めきら)大将が短い衣をつけ裸足で立つ以外は、いずれも武装している。
 頭部は髪(えんぱつ)、巻髪(けんぱつ)のほか、兜や天冠(てんかん)をつけたり様々である。また、武器をとり身構えたり、全身で躍動するものなどさまざまである。類例の少ない日本の板彫り彫刻の中で、きわめて珍しい像と評されている。像高100.3~88.9cm。
 所在地:奈良市登大路町48。
 交通:JR奈良駅、奈良交通市内循環系統に乗り5分、バス停県庁前下車すぐ。近鉄奈良駅から徒歩すぐ。

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 本編をもちまして完結となります。
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「葛城一言主神社」(かつらぎひとことぬしじんじゃ)

2012年11月05日 07時40分18秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 大和葛城山の東南麓に鎮座する祭神の一言主神は、「悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神」であるという託宣の神ということから、願い事を一言のみ叶えてくれると信仰を集めて「いちごん(じ)さん」と呼ばれ親しまれている。

 大泊瀬幼武尊((おおはつせわかたけるのみこと)雄略天皇)を合祀しており、名神大社に列せられているという。
 この事は古事記に次のように記されている。
 『雄略天皇が、当時の政治の中心地であった河内国と大和国の境にある葛城山中で狩を行った時、自分たちとそっくりの一行に出くわす。この時、驚いた天皇がその一行の素性を問うと、その人物は「吾(われ)は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と述べた。その一言を聞いた天皇は恐れ入って、自らの着ていた召物や持ち物をすべてその神に献上して、これを拝礼した。』

 境内には、『神武天皇紀』に記述がある土蜘蛛に関係するという蜘蛛塚や、推定樹齢1200年の大銀杏の御神木、本殿西側には奥宮の磐座があり古代からの信仰の地であったことがうかがえる。この御神木の宿り木から、「健康な子供を授かり、乳がよく出る」といい伝えられ、子供を思う親の願いが込められ、信仰を集めているそうだ。

 また、延暦23年(804)に最澄が遣唐使で唐に渡る際に道中の安全を祈願するために参拝したと伝えられており、元禄元年(1688)には松尾芭蕉もこの地を訪れ、「猶(なお)みたし花にあけゆく神の顔」の句を『笈の小文』(おいのこぶみ)に残している。

 所在地:御所市森脇字角田432。
 交通:近鉄御所線「御所」駅より 名柄行きバスで「上名柄」下車 徒歩15分。
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