白樺派の文豪「志賀直哉」が住んだ文化遺産となっている旧居(敷地435坪)を訪ねてみた。
志賀直哉は大正14年(1925)京都の山科から奈良の幸町の借家に居を移した。かねてから憧れていた奈良の古い文化財や自然の中で、仕事を深めて行きたいという願望によるもので、昭和三年には自ら設計した邸宅を高畑裏大道に造り、翌四年移り住んだ。
数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンで合理的な建物であった。
高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には春日の社を透して飛火野の緑の芝生が展開する静かな奈良の町の中でも特に風光明媚な屋敷町であり、新薬師寺や白毫寺にも近いという土地柄から、やがて多くの文化人がこの家に出入することになる。武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、若山為三、小川晴暘、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家・文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか高畑サロンと呼ばれるようになる。書斎や二階の客間からは若草山や三蓋山、高円山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られていた。
鎌倉に移り住むまでの10年間をここで家族と共に過ごし、「暗夜行路」のほか「痴情」、「プラトニック・ラブ」、「邦子」等を執筆した。
直哉が転居した後は、厚生年金の保養施設「飛火野荘」として長く使用されていたが、昭和53年6月24日、学校法人奈良学園が買収、セミ七―ハウスとしていたが、老朽化により改築計画が持ち上がると保存を望む声が全国的に高まり、学園は奈良文化女子短期大学セミナーハウスとして保存する一方、一般にも公開した。
書斎は六畳間の洋式だが、天井は数奇屋風で葦張り、すす竹、なぐりのはり等の調和が風情が風情をかもし出している。ここには子どもたち等も入れなかったという。
白樺派の精神を生かしたと言われる六畳の茶室は、数奇屋大工・下島松之助の作で、にじり口は、障子3枚で大きく中央に炉が切ってあり、数奇屋風で各区画の造りが異なる天井がとても優美である。
食堂は約二〇畳、サンルームは約十五畳あり、数奇屋風と西洋風と中国風を調和させた美しい部屋である。サンルームの天窓(当時はガラス)が大きく明るく周囲は葦張り。窓の上の横木が左右のバランスを工夫され、東側壁面の柱・横木の美的表現がすばらしい。
《志賀直哉》
明治16年(1883)2月20日-昭和46年(1971)10月21日宮城県石巻市生まれ。祖父の直道は旧相馬中村藩主相馬家の家令を勤め、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山を開発、相馬事件にも係わった。志賀直道は祖父。父直温は総武鉄道や帝国生命保険の取締役を歴任して明治期の財界で重きをなした人物で、第一銀行石巻支店に勤務していた時に生まれ、3歳より上京し祖父母のもとで育てられた。
学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学英文科入学。1908年ごろ、7年間師事した内村鑑三の下を去り、キリスト教からも離れる。国文科に転じた後に大学を中退。1910年に学習院時代からの友人武者小路実篤らと、文芸雑誌『白樺』を創刊。
所在地:奈良県奈良市高畑大道町。
交通:JR・近鉄奈良駅より奈良交通市内循環バス「破石町」下車徒歩5分。
志賀直哉は大正14年(1925)京都の山科から奈良の幸町の借家に居を移した。かねてから憧れていた奈良の古い文化財や自然の中で、仕事を深めて行きたいという願望によるもので、昭和三年には自ら設計した邸宅を高畑裏大道に造り、翌四年移り住んだ。
数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンで合理的な建物であった。
高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には春日の社を透して飛火野の緑の芝生が展開する静かな奈良の町の中でも特に風光明媚な屋敷町であり、新薬師寺や白毫寺にも近いという土地柄から、やがて多くの文化人がこの家に出入することになる。武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、若山為三、小川晴暘、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家・文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか高畑サロンと呼ばれるようになる。書斎や二階の客間からは若草山や三蓋山、高円山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られていた。
鎌倉に移り住むまでの10年間をここで家族と共に過ごし、「暗夜行路」のほか「痴情」、「プラトニック・ラブ」、「邦子」等を執筆した。
直哉が転居した後は、厚生年金の保養施設「飛火野荘」として長く使用されていたが、昭和53年6月24日、学校法人奈良学園が買収、セミ七―ハウスとしていたが、老朽化により改築計画が持ち上がると保存を望む声が全国的に高まり、学園は奈良文化女子短期大学セミナーハウスとして保存する一方、一般にも公開した。
書斎は六畳間の洋式だが、天井は数奇屋風で葦張り、すす竹、なぐりのはり等の調和が風情が風情をかもし出している。ここには子どもたち等も入れなかったという。
白樺派の精神を生かしたと言われる六畳の茶室は、数奇屋大工・下島松之助の作で、にじり口は、障子3枚で大きく中央に炉が切ってあり、数奇屋風で各区画の造りが異なる天井がとても優美である。
食堂は約二〇畳、サンルームは約十五畳あり、数奇屋風と西洋風と中国風を調和させた美しい部屋である。サンルームの天窓(当時はガラス)が大きく明るく周囲は葦張り。窓の上の横木が左右のバランスを工夫され、東側壁面の柱・横木の美的表現がすばらしい。
《志賀直哉》
明治16年(1883)2月20日-昭和46年(1971)10月21日宮城県石巻市生まれ。祖父の直道は旧相馬中村藩主相馬家の家令を勤め、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山を開発、相馬事件にも係わった。志賀直道は祖父。父直温は総武鉄道や帝国生命保険の取締役を歴任して明治期の財界で重きをなした人物で、第一銀行石巻支店に勤務していた時に生まれ、3歳より上京し祖父母のもとで育てられた。
学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学英文科入学。1908年ごろ、7年間師事した内村鑑三の下を去り、キリスト教からも離れる。国文科に転じた後に大学を中退。1910年に学習院時代からの友人武者小路実篤らと、文芸雑誌『白樺』を創刊。
所在地:奈良県奈良市高畑大道町。
交通:JR・近鉄奈良駅より奈良交通市内循環バス「破石町」下車徒歩5分。