「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「西大寺」(さいだいじ)

2011年03月26日 09時19分37秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 西大寺は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が藤原仲麻呂の反乱の鎮圧を目的に鎮護国家と平和祈願のために、
七尺の金銅四天王像の造立が発願され、常騰(じょうとう)を開山(初代住職)として翌年に着工、天平神護元年(765)から
宝亀末年(780)頃まで続けられたという。創建当初の境域は東西11町、南北七町、面積31町(約48ヘクタール)に及び、南都7大寺の1つとして壮大な伽藍を誇ったもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、110数宇の堂舎が甍を並べ、東の東大寺に対する西の官大寺であった。その後平安時代より数度の焼失により衰退、鎌倉時代中期嘉禎2年(1236)名僧興正菩薩叡尊上人(こうしょうぼさつえいそん しょうにん)が入山し復興、中興開山の祖と言われる。現在の西大寺の伽藍はほぼこの頃の構造を伝えているという。

■本堂(重要文化財)
 塔跡の北方に建つ建物で、現在の本堂は、文亀2年(1502)の兵火のあと、宝暦年間(175一~64)に再建されたものとされていたが、後の調査により、寛政年間(1789~1802)にそれまでの仮堂を廃して着工、文化初年に完成したものと判明した。桁行7間(24.335m)、梁行五間(16.825m)の寄棟造り・本瓦葺きで、土壁を使わない総板壁の珍しい造りである。また、内陣の4面に外陣をめぐらし、外部は桟唐戸(さんからと)を用いるほか、連子窓(れんじまど)、長押(なげし)、切り目縁など和様を主としているところがいかにも古風で趣がある。全般に装飾などが少なく簡素な堂宇であるが、近世仏堂としては、規模、意匠ともに優れたもののひとつに挙げられている。

■塔跡
 奈良時代には東西両塔が建てられ、そのうちの東塔跡である。創建当初のものはともに平安時代に焼失、東塔は藤原後期に再建されたものの室町時代文亀2年(1502)に焼失した。壇下の八角の小石列は、先ごろの発掘調査によって確認されており、創建期に計画され途中変更された八角七重塔の基壇の規模を示しているという。

■愛染堂
 もと京都の近衛政所御殿を宝暦12年(1762)に移建したもので、南北11間、東西八間の宸殿造り。内部は、3つに区切られており、中央内陣の厨子内には、宝治元年(1247)に仏師善円が作った愛染明王坐像を安置し、南側は、代々の霊牌をまつる御霊屋(おたまや)、北側は、閲見の場所である客殿となっている。

■四王堂
創建期の由緒を伝える唯一の堂といわれ、本尊は、正応2年(1289)亀山上皇の院宣によって京都から移安された、仏師円信作の藤原彫刻の十一面観音立像(重文/木造漆箔・像高1丈8尺)。現堂は延宝2年(1674)の再建。東西9間、南北7間の重層建築。

■釈迦如来立像(重文)
 当寺の本尊で、中興の祖・叡尊上人の発願で建長元年(1249)、京都・清涼寺の釈迦如来像を模彫した木像(像高167Cm)。頭髪を渦巻く縄状に刻み、施無畏(せむい)・与願の印相を示し、全体に穏やかな表現となっている。台座は四重の蓮華座で、桧材の素地仕上げである。 大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある、真言律宗総本山の寺院。奈良時代に称徳天皇の発願により、僧・常騰(じょうとう)を開山(初代住職)として建立された。南都7大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)によって復興された。山号を勝宝山と称する(ただし、奈良時代の寺院には山号はなく、後になって付けられたものである)。現在の本尊は釈迦如来である。

 所在地:奈良市西大寺芝町1-1-5。
 交通:近鉄西大寺駅下車、徒歩3分。


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「當麻寺」(たいまでら)

2011年03月22日 23時29分59秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 中将姫の蓮糸曼荼羅(當麻曼荼羅)の伝説で名高い「當麻寺」は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に威風堂々と建っている。

 当寺はこの地に勢力をもっていた豪族「當麻氏」の氏寺として建てられたもので、仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(七世紀後半)の遺物があり、寺の草創はこのころと推定されているが正確な時期や事情については正史に記録がなく、今日に至っても明らかではないが、當麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になってからではないかと言われ、鎌倉時代初期の建久2年(1191)に書かれた『建久御巡礼記』に草創期の背景が見られるという。

 これは、興福寺の僧・実叡が大和の名寺社を巡礼したときに記録したもので、これに聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したとあり、その後、その孫の當麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだという。一方、嘉禎3年(1237)の『上宮太子拾遺記』所引の『當麻寺縁起』によれば、推古天皇20年(612)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建し、現座地の南方の味曽路という場所にあったものを、692年に移築したとも伝えられているという。

 当寺は、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、国宝の本堂(曼荼羅堂)には室町時代に転写されたと伝わる、縦横四㍍程の織物「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」(重文)を本尊として祀ってある。曼荼羅の原本については、中将姫が蓮の糸を用いて一夜で織り上げたという伝説がある。また、壮麗な絵天井で知られる中之坊の「写仏道場」には、平成に入って描かれた色鮮やかな當麻曼荼羅が祀られており、これに描かれた仏様を描き写す「写仏体験」をすることができる。 

 では歌舞伎などでも有名な中将姫伝説について触れておこう。

 『藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれた姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられたが、執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家したが、姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と25菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立った』。

 この話は、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎にも取り上げられ人気を呼んだ。

■金堂(重要文化財)入母屋造、本瓦葺。鎌倉時代前期に再建されたというが、藤原京や平城京などの大寺の金堂と比べたら小さいが、創建以来の規模を保っているとのこと。内部は土間で、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などが安置されている。

■講堂(同)は金堂の背後にあり、寄棟造、本瓦葺。鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建とされ、本尊阿弥陀如来坐像(同)のほか、多くの仏像を安置。

■本堂(国宝)
 金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。平安時代末期、永暦2年(1161)の建築。解体修理寺の調査の結果から、平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したもので、奈良時代の建物の部材も一部転用されていることがわかっている。

■東塔・西塔(同)
 いずれも三重塔で、東塔は初重が三間に対して、二重・三重を二間とする特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例)。西塔は初重、二重、三重とも柱間を三間とし、屋根上の水煙(すいえん)は、東塔の魚の骨のような形をしたユニークな作りをしている。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定されている。

 この他、別院「護念院双塔園」(国指定名勝)の牡丹の花は全国的に知られ、シーズンともなればバスツアーなど多くの観光客で賑わっている。

 所在地:奈良県葛城市當麻1263。
 交通:近鉄南大阪線「当麻寺駅」下車、徒歩20分。

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「大安寺」(だいあんじ)

2011年03月10日 07時28分04秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 大安寺は、奈良市中心部にある高野山真言宗の寺院で、開基は聖徳太子と伝えられている。
 天平19年(747)作成の「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」(だいあんじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう)によると、推古29年(622)、太子が「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ)を建立し、後に「これを大寺にするように」と遺言を残したことから、舒明11(639)百済川の側に初めての国家寺院となる「百済大寺」(くだらだいじ)を建立し移転。さらに、壬申の乱に勝利した天武天皇が、673年に百済大寺を明日香村の高市郡へ移転させ、「高市大寺」(たけちだいじ)を造営、677年に寺名を「大官大寺」(だいかんだいじ)と改め、川原寺・飛鳥寺などと共に3大官寺のトップとして重きをおいた。その後、710年の平城京遷都とともに新都へ移転して「大安寺」となったとある。

 平安時代(平城京)前半は東西二基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大寺、興福寺と並ぶ南都7大寺の一つ上げられる大寺院で、「南大寺」の別称があったという。
 この頃の当寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめ歴史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017)の火災で主要堂塔を焼失し、源平争乱期の1181年には、平重衡による「南都焼き討ち」にあい焦土と化して以降衰退した。

 現存する本堂、嘶堂(いななきどう)などはずれも近代の建物であり、規模も大幅に縮小している。遺品となる文化財は、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏九体が残るのみである。

 がん封じの本尊として信仰があつい「本尊十一面観音立像」(重要文化財)は一木造で、像高190.5㎝。秘仏とされ毎年10月-11月のみ公開されている。胸部の瓔珞(装身具)は精巧華麗に刻み出されて美しく、肉付きのよい体部と柔らかい条帛裳の流れ、そして天衣の見事な表現はこの像の優美さをよく引き立てている。また腹部にしめる石帯には数珠つなぎの飾りが垂れ、台座の菊座と対葉花文が刻まれ、実に見事な意匠と彫り口が示されている。本尊の脇には、青年期と壮年期、2体の弘法大師像が並んでいてなかなか珍しい。

 嘶堂に安置されている「頭観音立像」(重文)も3月のみの公開となっている。この他、収蔵庫に「楊柳観音立像」(重文)など七躯の木彫仏が納められている。

 所在地:奈良市大安寺2丁目18-1。
 交通:JR奈良駅・近鉄奈良駅より、奈良交通バス「大安寺行」などから大安寺バス停下車、徒歩約10分。

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