阪急嵐山線「松尾」駅下車、改札口を出て右の方向に曲がり松尾橋を渡る。罧原堤四条交差点から市道嵐山祇園線(四条通)を東の方向に約400㍍進むと信号のある交差点に着く。梅宮大社への参道標識を見てその交差点を左の方向に曲がり直進すると梅宮大社の鳥居が見える。
当社は今から凡そ1300年前、橘氏の祖・諸兄(もろえ)公の母、県犬養三千代(あがたいぬかい みちよ)が、橘氏一門の氏神として始めて祀った神社である。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(やましろのくにそうらくぐんいでのしょう)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられている。
其の後、天平宝字年中、1250年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂(むちまろ)夫人の牟婁(むろ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ<檀林皇后>)によって現在の地に遷し祀られた。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われたが、神前で雅楽が奉納されたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は4月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めたという。
仁明(にんみょう)天皇は、1150年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中に加えられ、醍醐天皇の代に定められた延喜式(えんぎしき)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(としごいまつり)・月次祭(つきなみさい)・新嘗祭(にいなめさい)には朝廷からの幣帛(へいはく)を新饌台(しんせんだい)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもって祀られた。更に日本中で特選された22の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられた。
初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神である酒解神(さかとけのかみ、大山祇神)、およびその御子神である酒解子神(さかとけごのかみ、木花咲耶姫命)、その夫の大若子神(おおわくごのかみ、瓊々杵尊)、孫の小若子神(こわくごのかみ、彦火火出見尊)を主祭神として本殿に祀る。相殿に嵯峨天皇、その子の仁明天皇、嵯峨天皇の后の橘嘉智子(檀林皇后、橘嘉智子の父の橘清友が祀られている。
木花咲耶姫命は瓊々杵尊と結婚すると一夜にして懐妊したが、これを瓊々杵尊が疑う。この疑いを晴らすため、木花咲耶姫命は砂の上に室屋をつくり、自身の貞節を天地神明に誓いその中に入り火を放ったが、炎の中で何の支障もなく彦火々出見尊を安産したという。この言い伝えにより、橘嘉智子皇后が懐妊したとき社殿の砂を床の下に敷いて仁明天皇を出産したが安産だったとされていることから、梅宮大社は「子授け、安産の守護神」として知られている。
また、相殿に祀られている嵯峨天皇は日本三筆の一人であり、橘氏は日本最初の学校を創設したことから、「学業成就祈願」の神社として、また、仁明天皇は横笛の名手で、我が国で最初に雅楽を作曲したことから「音楽芸能の神」を祀る神社としても知られている。
楼門の横に枝振り優れた五葉松が在り特に色が美しい。御本殿を囲む様に東神苑、北神苑、西神苑と在り、緑と水の間に年中花が絶えない。東神苑の咲耶池の周りには、杜若、花菖蒲、霧島つつじが咲き、島の中にある茶席「池中亭」(嘉永4年/1851)は「芦のまろ屋」と呼ばれている。
平安時代の梅津の里の風景を歌った百人一首、
「ゆうされば かどたのいなば おとずれて
あしのまろやに 秋風ぞふく」(大納言 源 経信)
北神苑には、紅玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲き、日陰には紫陽花が咲き乱れる。西神苑は梅林で、ラッパ水仙が道路に沿って咲く。
江戸の中頃に本居宣長(もとおりのりなが)が、梅宮に献木の梅に添えて
「よそ目にも その神垣とみゆるまで
うえばや梅を千本八千本」と詠んだのは有名。
そして椿は神苑全体に亘って植えてあり、約50種類もある。四季折々の花が楽しめるところでもある。
所在地:京都市右京区梅津フケノ川町30。
交通:阪急嵐山線「松尾駅」下車、徒歩15分。JR京都駅より市バス28系・嵐山・大覚寺行き、梅の宮大社前下車すぐ。
当社は今から凡そ1300年前、橘氏の祖・諸兄(もろえ)公の母、県犬養三千代(あがたいぬかい みちよ)が、橘氏一門の氏神として始めて祀った神社である。その鎮座の地は山城国相楽郡井出庄(やましろのくにそうらくぐんいでのしょう)すなわち、今の綴喜群井出町付近であったと伝えられている。
其の後、天平宝字年中、1250年ばかり前に、聖武天皇の妃・光明皇后と藤原武智麻呂(むちまろ)夫人の牟婁(むろ)女王が奈良の都に御遷座になり、更に泉川(木津川)の上流かせ山を経て平安時代の始め、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ<檀林皇后>)によって現在の地に遷し祀られた。当時、皇后は親しく行啓して盛大な祭儀を行われたが、神前で雅楽が奉納されたことは、此の時を最初の例とし以来、梅宮祭は4月上の酉の日に行われ、雅楽祭の名を高めたという。
仁明(にんみょう)天皇は、1150年ばかり前、承和年中にこの祭を特に名神祭という国家の主要な神祭の中に加えられ、醍醐天皇の代に定められた延喜式(えんぎしき)では、国家の制度にのっとり、名神大社というもっとも高い格式に置き、祈年祭(としごいまつり)・月次祭(つきなみさい)・新嘗祭(にいなめさい)には朝廷からの幣帛(へいはく)を新饌台(しんせんだい)の上に載せて奉るという、案上の官幣と呼ばれる最高の儀礼をもって祀られた。更に日本中で特選された22の大社の中に加えられ、明治の初めには官弊社に列せられた。
初めて酒を作って神々に献じた酒造の祖神である酒解神(さかとけのかみ、大山祇神)、およびその御子神である酒解子神(さかとけごのかみ、木花咲耶姫命)、その夫の大若子神(おおわくごのかみ、瓊々杵尊)、孫の小若子神(こわくごのかみ、彦火火出見尊)を主祭神として本殿に祀る。相殿に嵯峨天皇、その子の仁明天皇、嵯峨天皇の后の橘嘉智子(檀林皇后、橘嘉智子の父の橘清友が祀られている。
木花咲耶姫命は瓊々杵尊と結婚すると一夜にして懐妊したが、これを瓊々杵尊が疑う。この疑いを晴らすため、木花咲耶姫命は砂の上に室屋をつくり、自身の貞節を天地神明に誓いその中に入り火を放ったが、炎の中で何の支障もなく彦火々出見尊を安産したという。この言い伝えにより、橘嘉智子皇后が懐妊したとき社殿の砂を床の下に敷いて仁明天皇を出産したが安産だったとされていることから、梅宮大社は「子授け、安産の守護神」として知られている。
また、相殿に祀られている嵯峨天皇は日本三筆の一人であり、橘氏は日本最初の学校を創設したことから、「学業成就祈願」の神社として、また、仁明天皇は横笛の名手で、我が国で最初に雅楽を作曲したことから「音楽芸能の神」を祀る神社としても知られている。
楼門の横に枝振り優れた五葉松が在り特に色が美しい。御本殿を囲む様に東神苑、北神苑、西神苑と在り、緑と水の間に年中花が絶えない。東神苑の咲耶池の周りには、杜若、花菖蒲、霧島つつじが咲き、島の中にある茶席「池中亭」(嘉永4年/1851)は「芦のまろ屋」と呼ばれている。
平安時代の梅津の里の風景を歌った百人一首、
「ゆうされば かどたのいなば おとずれて
あしのまろやに 秋風ぞふく」(大納言 源 経信)
北神苑には、紅玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲き、日陰には紫陽花が咲き乱れる。西神苑は梅林で、ラッパ水仙が道路に沿って咲く。
江戸の中頃に本居宣長(もとおりのりなが)が、梅宮に献木の梅に添えて
「よそ目にも その神垣とみゆるまで
うえばや梅を千本八千本」と詠んだのは有名。
そして椿は神苑全体に亘って植えてあり、約50種類もある。四季折々の花が楽しめるところでもある。
所在地:京都市右京区梅津フケノ川町30。
交通:阪急嵐山線「松尾駅」下車、徒歩15分。JR京都駅より市バス28系・嵐山・大覚寺行き、梅の宮大社前下車すぐ。