近松門左衛門の名作『冥土の飛脚』のモデルとなった遊女梅川と飛脚屋の梅川忠兵衛ゆかりの寺を訪ねた。
当寺は法然上人源空の弟子久野作仏房が、建久3年(1192)に熊野巡拝の帰路 、葛本の不経堂の地に一宇の庵室を構え念仏の道場としたのが初めといわれ、正徳3年(1713)に現在地に移転し安楽寺と称した。
本尊は「阿弥陀三尊坐像」、表門は鬼瓦に延享3年(1746)、青光寺(廃寺)の門を移築したもだという。
本堂前の水子地蔵の向かって右隣に「梅かわ忠兵衛」の碑があり、江戸時代の阿弥陀石仏碑で「休安禅忠兵衛、香薫禅定尼梅かわ」と刻まれている。
この物語を要訳すると、 大阪淡路町の三度飛脚亀屋の養子忠兵衛は新町槌屋の遊女の梅川と恋仲になり通い詰めた。梅川を身請けしたいと金策に走るが思うように集められず、困り果てた忠兵衛は三百両の封印切りの大罪を犯し、生まれた大和新口村(現在の橿原市新口町)に駆落したが捕らえられ、忠兵衛は大阪千日前の刑場で処刑され、梅川は近江矢橋の十王堂で、忠兵衛の菩提を弔いつつ懺悔の日々をおくった。
「冥土の飛脚」には「奈良の旅籠屋三輪の茶屋、5日、3日、夜を明し、20日あまりに、四○両、使い果して二分(一両の半分)残る。鐘も霞むや初瀬山・余所に見捨ての親里の、新口村に着きにけるが」という名文句がよく知られている。
所在地:橿原市葛本町259。
交通:近鉄橿原線「新ノ口」駅下車、徒歩8分。
当寺は法然上人源空の弟子久野作仏房が、建久3年(1192)に熊野巡拝の帰路 、葛本の不経堂の地に一宇の庵室を構え念仏の道場としたのが初めといわれ、正徳3年(1713)に現在地に移転し安楽寺と称した。
本尊は「阿弥陀三尊坐像」、表門は鬼瓦に延享3年(1746)、青光寺(廃寺)の門を移築したもだという。
本堂前の水子地蔵の向かって右隣に「梅かわ忠兵衛」の碑があり、江戸時代の阿弥陀石仏碑で「休安禅忠兵衛、香薫禅定尼梅かわ」と刻まれている。
この物語を要訳すると、 大阪淡路町の三度飛脚亀屋の養子忠兵衛は新町槌屋の遊女の梅川と恋仲になり通い詰めた。梅川を身請けしたいと金策に走るが思うように集められず、困り果てた忠兵衛は三百両の封印切りの大罪を犯し、生まれた大和新口村(現在の橿原市新口町)に駆落したが捕らえられ、忠兵衛は大阪千日前の刑場で処刑され、梅川は近江矢橋の十王堂で、忠兵衛の菩提を弔いつつ懺悔の日々をおくった。
「冥土の飛脚」には「奈良の旅籠屋三輪の茶屋、5日、3日、夜を明し、20日あまりに、四○両、使い果して二分(一両の半分)残る。鐘も霞むや初瀬山・余所に見捨ての親里の、新口村に着きにけるが」という名文句がよく知られている。
所在地:橿原市葛本町259。
交通:近鉄橿原線「新ノ口」駅下車、徒歩8分。