曽我川と飛鳥川に囲まれた境域にある三十八柱神社は「小墾田の宮」ともいわれている。
法隆寺の太子伝玉林抄(紀元1448年)には聖徳太子伝暦(紀元917)の注記に「小墾田ノ宮ハ当時大仏供(大福の古名)ト云フ里ニヲハル田ノ宮トテ小社アリ其レ宮所也云々」と明記されていることから、千年の昔にすでに存在していたことがわかり、聖徳太子が十七条の憲法を発し、遣隋使装世清を迎えて大陸との国交を開かれた小墾田の地であると考えられると、当社由緒に記されている。
境内は三方に周濠をめぐらし、こんもりとした森を形成しており、その中でひときわ大きい松の巨樹が高くそびえている。祭神「水波能売命」(みずはのめのみこと)は、水の神で、曽我川と飛鳥川に囲まれた境内は水の神を祀るにふさわしい所。周辺には田畑が広がり、のどかなたたずまいを見せている。
元文元年(1736)造営された本殿は神明造で、高床の古風な建築で草葺千木、勝男木をあげている。現在の本殿は明治44年、伊勢神宮別宮、伊雑宮の末社、佐美良神社(三重県志摩郡磯部村上之郷鎮座)の本殿古材を利用し復原されたものという。仏涅槃図は、三十八柱神社の神宮寺であった「真福寺」の所有であった。また、室町時代の永正11年(1514)2月29日に真福寺の「涅槃会」に寄進されたことが裏面に記されており、現在は奈良国立博物館に預けられている。
拝殿は、千木(ちぎ)、勝男木(かつおぎ)をあげた三間に二間の立派な茅葺の建物ですべて吹き放しになっていて、落ち着いた木の色に風格が感じられる。
拝殿のすぐ前に二ノ鳥居があり、弘化4(1847)年宮講中奉献になる狛犬一対と同年造立の五穀成就祈願の石燈籠一対が両側にある。社務所の辺りに礎石らしい石をいくつか見かけるが、もとここに真福寺薬師堂があったらしいが、現在は光明寺に移されているという。
所在地:奈良県三宅町小柳373。
交通:近鉄田原本線「但馬」駅下車、徒歩15分。
法隆寺の太子伝玉林抄(紀元1448年)には聖徳太子伝暦(紀元917)の注記に「小墾田ノ宮ハ当時大仏供(大福の古名)ト云フ里ニヲハル田ノ宮トテ小社アリ其レ宮所也云々」と明記されていることから、千年の昔にすでに存在していたことがわかり、聖徳太子が十七条の憲法を発し、遣隋使装世清を迎えて大陸との国交を開かれた小墾田の地であると考えられると、当社由緒に記されている。
境内は三方に周濠をめぐらし、こんもりとした森を形成しており、その中でひときわ大きい松の巨樹が高くそびえている。祭神「水波能売命」(みずはのめのみこと)は、水の神で、曽我川と飛鳥川に囲まれた境内は水の神を祀るにふさわしい所。周辺には田畑が広がり、のどかなたたずまいを見せている。
元文元年(1736)造営された本殿は神明造で、高床の古風な建築で草葺千木、勝男木をあげている。現在の本殿は明治44年、伊勢神宮別宮、伊雑宮の末社、佐美良神社(三重県志摩郡磯部村上之郷鎮座)の本殿古材を利用し復原されたものという。仏涅槃図は、三十八柱神社の神宮寺であった「真福寺」の所有であった。また、室町時代の永正11年(1514)2月29日に真福寺の「涅槃会」に寄進されたことが裏面に記されており、現在は奈良国立博物館に預けられている。
拝殿は、千木(ちぎ)、勝男木(かつおぎ)をあげた三間に二間の立派な茅葺の建物ですべて吹き放しになっていて、落ち着いた木の色に風格が感じられる。
拝殿のすぐ前に二ノ鳥居があり、弘化4(1847)年宮講中奉献になる狛犬一対と同年造立の五穀成就祈願の石燈籠一対が両側にある。社務所の辺りに礎石らしい石をいくつか見かけるが、もとここに真福寺薬師堂があったらしいが、現在は光明寺に移されているという。
所在地:奈良県三宅町小柳373。
交通:近鉄田原本線「但馬」駅下車、徒歩15分。