「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「三十八柱神社」(みそやはしらじんじゃ)

2012年08月13日 07時15分49秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 曽我川と飛鳥川に囲まれた境域にある三十八柱神社は「小墾田の宮」ともいわれている。
 法隆寺の太子伝玉林抄(紀元1448年)には聖徳太子伝暦(紀元917)の注記に「小墾田ノ宮ハ当時大仏供(大福の古名)ト云フ里ニヲハル田ノ宮トテ小社アリ其レ宮所也云々」と明記されていることから、千年の昔にすでに存在していたことがわかり、聖徳太子が十七条の憲法を発し、遣隋使装世清を迎えて大陸との国交を開かれた小墾田の地であると考えられると、当社由緒に記されている。

 境内は三方に周濠をめぐらし、こんもりとした森を形成しており、その中でひときわ大きい松の巨樹が高くそびえている。祭神「水波能売命」(みずはのめのみこと)は、水の神で、曽我川と飛鳥川に囲まれた境内は水の神を祀るにふさわしい所。周辺には田畑が広がり、のどかなたたずまいを見せている。

 元文元年(1736)造営された本殿は神明造で、高床の古風な建築で草葺千木、勝男木をあげている。現在の本殿は明治44年、伊勢神宮別宮、伊雑宮の末社、佐美良神社(三重県志摩郡磯部村上之郷鎮座)の本殿古材を利用し復原されたものという。仏涅槃図は、三十八柱神社の神宮寺であった「真福寺」の所有であった。また、室町時代の永正11年(1514)2月29日に真福寺の「涅槃会」に寄進されたことが裏面に記されており、現在は奈良国立博物館に預けられている。

 拝殿は、千木(ちぎ)、勝男木(かつおぎ)をあげた三間に二間の立派な茅葺の建物ですべて吹き放しになっていて、落ち着いた木の色に風格が感じられる。
 拝殿のすぐ前に二ノ鳥居があり、弘化4(1847)年宮講中奉献になる狛犬一対と同年造立の五穀成就祈願の石燈籠一対が両側にある。社務所の辺りに礎石らしい石をいくつか見かけるが、もとここに真福寺薬師堂があったらしいが、現在は光明寺に移されているという。

 所在地:奈良県三宅町小柳373。
 交通:近鉄田原本線「但馬」駅下車、徒歩15分。
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「大和神社」(おおやまとじんじゃ)

2012年08月01日 17時04分18秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 大和神社は式内社(名神大社)で、日本書紀によれば、元々倭大国魂神は天照大神と共に大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反が起きるのは両神の勢いによるものと畏れ、崇神天皇6年(紀元前92年)、倭大国魂神を皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎主として祀った。

 しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年(紀元前91年)、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳、孝霊天皇の皇女)が夢で「市磯長尾市(いちしのながおち)をもって、倭大国魂神を祭る主とすれば、必ず天下太平となる」との神託を受け、また同年に同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地が定められ鎮座・創建したと伝わる。

 当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。
 寛平9年(897)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、後に十六社・二十二社の一社ともなった。平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。

 明治4年(1871)官幣大社に列した。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
 戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。昭和44年(1969)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972)に巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者約3700柱が国家鎭護の神として祀られている。

 所在地:奈良県天理市新泉町306。
 交通:JR桜井線「長柄(ながら)」下車、徒歩5分。
 
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