橿原市側から国道169号線を壷坂寺方面へ向かうと、高市郡高取町にある「子嶋寺」の看板が見えてくる。あまり目立たない小さな寺だがその昔は歴史に名を残す大寺院で、創建は760年、考謙天皇の勅願により、僧・報恩によって開かれたと言われる。また一説では、桓武天皇が建立したとも言われており詳細は不明。
現在は周りを田んぼに囲まれた小寺に過ぎないが、大寺院の頃は高取城主の本多氏・植村氏の庇護を受け、この一帯は全て子嶋寺の寺領だったのだというが、のどかな田んぼと少しの民家の間にポツリと建っており、往年の面影はみられない。
今にも崩れそうな山門は、明治時代に取り壊されてしまった「高取城」から移築されたものだそうだ。現在の高取城跡は、かすかに石組みが残るだけだが、当時は姫路城とも並び称されるような巨大な山城であったという。
尊皇攘夷派による初めての武力蜂起として歴史に名を残している「天誅組の変」では、高取城攻めが行われ、わずかな兵力でこれを退けたのだとか。
寺の前にある池に小さな祠が建っているが、伝説では池に龍が棲んでいて、大暴れしたこともあったとか。(本堂内に龍の木像がある)当寺は京都の「清水寺」の親寺に当たる存在だという。子嶋寺の僧・延鎮と、征夷大将軍「坂上田村麻呂」によって、子嶋寺の別院のような扱いで開かれたのが、京都の「清水寺」だというのだ。清水寺に伝わる夢のお告げによって音羽の滝を見つけた僧が延鎮だったことに由来している。またその昔、一条天皇の病気平癒を祈願したことによって下賜された、巨大な国宝の曼荼羅「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」(国宝)も所蔵品(奈良国立博物館に寄託)。
曼荼羅は、金剛界と胎蔵界で対になっていて、本堂内には実物の四分の一のサイズの銅板の複製品が飾られており、実物は縦横3mほどの巨大なもので、京都・神護寺と東寺の曼荼羅と並ぶ「三大曼荼羅」とされるほどのものだそうだ。
また、当寺は「大和七福神」の大黒天を祀る札所にもなっており、撫でられて黒光りした大黒天は、正面から見ると真四角に見える体型をしている。境内の「十三重石塔」も一条天皇から下賜されたものという。
所在地:高市郡高取町観覚寺544。
交通:近鉄吉野線「壺阪山駅」から徒歩10分。
現在は周りを田んぼに囲まれた小寺に過ぎないが、大寺院の頃は高取城主の本多氏・植村氏の庇護を受け、この一帯は全て子嶋寺の寺領だったのだというが、のどかな田んぼと少しの民家の間にポツリと建っており、往年の面影はみられない。
今にも崩れそうな山門は、明治時代に取り壊されてしまった「高取城」から移築されたものだそうだ。現在の高取城跡は、かすかに石組みが残るだけだが、当時は姫路城とも並び称されるような巨大な山城であったという。
尊皇攘夷派による初めての武力蜂起として歴史に名を残している「天誅組の変」では、高取城攻めが行われ、わずかな兵力でこれを退けたのだとか。
寺の前にある池に小さな祠が建っているが、伝説では池に龍が棲んでいて、大暴れしたこともあったとか。(本堂内に龍の木像がある)当寺は京都の「清水寺」の親寺に当たる存在だという。子嶋寺の僧・延鎮と、征夷大将軍「坂上田村麻呂」によって、子嶋寺の別院のような扱いで開かれたのが、京都の「清水寺」だというのだ。清水寺に伝わる夢のお告げによって音羽の滝を見つけた僧が延鎮だったことに由来している。またその昔、一条天皇の病気平癒を祈願したことによって下賜された、巨大な国宝の曼荼羅「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」(国宝)も所蔵品(奈良国立博物館に寄託)。
曼荼羅は、金剛界と胎蔵界で対になっていて、本堂内には実物の四分の一のサイズの銅板の複製品が飾られており、実物は縦横3mほどの巨大なもので、京都・神護寺と東寺の曼荼羅と並ぶ「三大曼荼羅」とされるほどのものだそうだ。
また、当寺は「大和七福神」の大黒天を祀る札所にもなっており、撫でられて黒光りした大黒天は、正面から見ると真四角に見える体型をしている。境内の「十三重石塔」も一条天皇から下賜されたものという。
所在地:高市郡高取町観覚寺544。
交通:近鉄吉野線「壺阪山駅」から徒歩10分。