「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「子嶋寺」(こじまてら)

2011年08月27日 07時33分31秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 橿原市側から国道169号線を壷坂寺方面へ向かうと、高市郡高取町にある「子嶋寺」の看板が見えてくる。あまり目立たない小さな寺だがその昔は歴史に名を残す大寺院で、創建は760年、考謙天皇の勅願により、僧・報恩によって開かれたと言われる。また一説では、桓武天皇が建立したとも言われており詳細は不明。

 現在は周りを田んぼに囲まれた小寺に過ぎないが、大寺院の頃は高取城主の本多氏・植村氏の庇護を受け、この一帯は全て子嶋寺の寺領だったのだというが、のどかな田んぼと少しの民家の間にポツリと建っており、往年の面影はみられない。
 今にも崩れそうな山門は、明治時代に取り壊されてしまった「高取城」から移築されたものだそうだ。現在の高取城跡は、かすかに石組みが残るだけだが、当時は姫路城とも並び称されるような巨大な山城であったという。
 尊皇攘夷派による初めての武力蜂起として歴史に名を残している「天誅組の変」では、高取城攻めが行われ、わずかな兵力でこれを退けたのだとか。

 寺の前にある池に小さな祠が建っているが、伝説では池に龍が棲んでいて、大暴れしたこともあったとか。(本堂内に龍の木像がある)当寺は京都の「清水寺」の親寺に当たる存在だという。子嶋寺の僧・延鎮と、征夷大将軍「坂上田村麻呂」によって、子嶋寺の別院のような扱いで開かれたのが、京都の「清水寺」だというのだ。清水寺に伝わる夢のお告げによって音羽の滝を見つけた僧が延鎮だったことに由来している。またその昔、一条天皇の病気平癒を祈願したことによって下賜された、巨大な国宝の曼荼羅「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」(国宝)も所蔵品(奈良国立博物館に寄託)。

 曼荼羅は、金剛界と胎蔵界で対になっていて、本堂内には実物の四分の一のサイズの銅板の複製品が飾られており、実物は縦横3mほどの巨大なもので、京都・神護寺と東寺の曼荼羅と並ぶ「三大曼荼羅」とされるほどのものだそうだ。

 また、当寺は「大和七福神」の大黒天を祀る札所にもなっており、撫でられて黒光りした大黒天は、正面から見ると真四角に見える体型をしている。境内の「十三重石塔」も一条天皇から下賜されたものという。

 所在地:高市郡高取町観覚寺544。
交通:近鉄吉野線「壺阪山駅」から徒歩10分。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「狭井神社」(さいじんじゃ)

2011年08月21日 23時02分55秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 狭井神社は正式には「狭井坐大神荒魂神社」と称し、今からおおよそ2千年前、第11代垂仁天皇の時代に創祀された由緒ある神社で、主祭神は「大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)」を祀ってある。病気を鎮める神として界隈をはじめ広く信仰を集めている。

 以前に紹介した日本最古の神社と言われている「大神神社」から続く「くすり道」を進むと5分ほどで当社に着く、御神体「三輪山」への登拝口や、御神水が湧き出る「薬井戸」などがある。古くから霊験あらたかな「くすり水」として知られた湧き水で、減菌処理を施したコップも用意されており、ゴクリト飲み干すと何ともうまい水で、まさに「甘露」であった。 井戸の近くには御神水を使った「水琴窟(すいきんくつ)」もあり、竹筒に耳を当てると、水が落ちる音が涼やかな琴の音色を奏でているようだった。なお、三輪山へ登るには、この社で入山料を払い、襷を借りて登ることになっている。

 この界隈には社が多く点在しており、まさに神々が宿る地域でもある。当社の近くには、知恵の神様を祀る「久延彦神社」、通りすぎて先へ進むと、大神神社の摂社「檜原神社」、そして、参道の途中にある小さな祠の「磐座神社(いわくらじんじゃ)」や大物主大神と力をあわせて国土を開発した「少彦名命(すくなひこなのかみ)」が祀られ、当社の鳥居近くにある「鎮女池」の脇には「市杵島姫神社」が、水の守護神である弁財天さんを祀っている。

 毎年4月18日に行われる「鎮花祭(はなしずめまつり)」は、俗に「くすりまつり」ともいわれ、大神神社とこの狭井神社で執り行われる重要な祭りで、起源は崇神天皇のとき、全国に疫病が流行したが太田田根子を召して祭神の大物主神を祭ったところ疫病が止んだことにあるという。実際は、春になって木の芽がふくころ陽気の変化がさまざまな病気が流行ることから、これを鎮める厄払いとして起こったのだろう。
 「のどかなる 春の祭の花しづめ 風をさまれと なほ祈るらし」(新拾遺和歌集)

 所在地:奈良県桜井市三輪。
 交通:JR「三輪駅」から徒歩15分。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「宇太水分神社」(うだみくまりじんじゃ)

2011年08月09日 09時37分24秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 奈良盆地より南東に少し入った山間に宇陀市菟田野(うたの)地区がある。宇陀川の支流である芳野川(ほうのがわ)が流れ、昔懐かしい田園風景が広がるその里村には、大和から伊勢へと至る街道が通っており、かつては往来で賑わっていたという。宇太水分神社はその街道沿いの、菟田野町へと入るその手前。古くは市場町として栄えた、古市場地区に鎮座する古社がある。
 一の鳥居、二の鳥居をくぐって境内に入ると、正面に銅板葺きの拝殿が建ち、その背後に一直線に配された五棟の朱塗りの社殿が鎮座するのが目に留まる。宇陀郡屈指の大社で水の配分を司る神が祀られてある。奈良盆地には大きな川が無く、慢性的な水不足に悩まされいたこともあり、人びとは水分の神を篤く信仰し豊穣を願ったという。

 創記は太古まで遡り、第十代崇神天皇7年2月の勅祭と伝えられている。また、大和朝廷の勢力範囲の東西南北に祀られた水分の神の東に当たるのが、中社である。大和の式内社の水分神社は宇太と葛城(かつらぎ)、吉野、都祁(づけ)の四社だけ。
 古書によると、平城天皇の大同元年(806)の牒に神封一戸が奉られ、承和7年(840)、貞親元年(859)それぞれ神位を進められた。貞観元年9月8日には、奉幣使を派遺して風雨を祈願。醍醐天皇の延喜の制で大和四水分杜は大社に列せられたある。

 現存する本殿は鎌倉時代末期の元応2年(1320)2月に造営された。また、年代は詳らかではないが室町時代には、境内社の春日神社・宗像神社の杜殿の建造が行われている。

 夏でも涼しい緑濃い木立に包まれた鎌倉時代の本殿(国宝)は、一間社隅木入(すみぎいり)春日造の三棟が並び立ち、速秋津彦(はやあきつひこ)神邸、天水分(あめのみくまり)神、国水分(くにのみくまり)神の水分三座を祭る。本殿に向かって右側に、室町中期の摂社春日神社本殿(重要文化財)と室町末期の摂社宗像(むなかた)神社本殿(重文)が並んでいる。様式は、水分連結造りの古型で、外部は朱塗り。蟇股など細部に鎌倉時代の特徴をみることができる。

 樹齢500年といわれる欅(けやき)の大樹や杉の巨木がうっ蒼と社殿をかこみ、境内は、幽玄の世界に包まれている。大杉は、源頼朝(みなもとのよりとも)が幼少のころに杉苗(すぎなえ)を植えて祈願したものと伝えられ、頼朝杉(よりともすぎ)ともよばれている。
 本殿の柱や梁、長押などには、朱塗りの上に極彩色の文様が施されており、これらの彩色は、2003年に行われた平成の大造営における社殿の塗り直しの際に発見された古い彩色の跡を元に、その文様を○四年に復元した。調査によると、その古い彩色は永禄元年における修理以降、各社殿に施されたものであるといい、菊やボタンなどの花文様や唐草文様、波文様などが色鮮やかに描かれている。

 本殿三棟の右隣に建つのは、末社の春日神社本殿で、この地が春日大社の荘園であった縁で勧請され、祀られたものだという。本殿と同様に間社隅木入春日造で一回り小さいが、その建造時期は室町時代の中期頃という。

 祭神は、奈良の春日大社本社本殿第二殿と同じ、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)。さらにその右隣の社殿は、同じく末社の宗像神社本殿である。こちらは一間社の流造で、室町時代末期の建立。祭神は市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)である。これらは、宇太水分神社本殿とまではいかないものの古い神社建築であり、どちらも重要文化財に指定されている。
 
 所在地:奈良県宇陀市菟田野区古市場244-3
 交通:近鉄榛原駅から奈良交通バス10・11・70・71系統行きで15分、古市場水分神社下車、徒歩すぐ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「正暦寺」(しょうりゃくじ)

2011年08月02日 06時49分06秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 日本清酒発祥の地としても知られている「正暦寺」は、奈良市と山野辺の道のほぼ中間に位置しており、正暦3年(992)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建したと伝わる。往時には、報恩院以下八六坊の堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺院であったというが、治承4年(1180)に、平重衡による南都焼き討ちによって焼失した。建保6年(1218)、興福寺一乗院大乗院住職信円僧正(関白藤原忠通の子)が法相宗の学問所として再興し、興福寺の別院正願院門跡となった。江戸時代に入り、慶長6年(1601)には寺禄約一千石を数えていたが、応仁の乱後に再興された82坊によって、往時の様を取り戻していた。本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。

 寛永6年(1629)、堂塔伽藍が焼失、三百石の朱印地を与えられることとなった。江戸中期以降は、法相宗の影響が次第に薄れ、真言宗仁和寺の末寺となった。明治時代の廃仏毀釈によって荒廃した。往時の威容は、参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。
 昭和42年(1967)仁和寺から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗るものの、廃仏毀釈の影響も尾を引き、今では山間にひっそりと佇む小さな寺院となっている。

 本尊(年3回開帳)は「金銅薬師如来坐像」(重要文化財)で、台座に腰掛けた珍しい倚像(いぞう)で、わずか38cmの小さな像だが、白鳳時代の作と言われ「踏割蓮華」(ふみわりれんげ)の上に両足を置いている珍しいもので、小さながらも風格が感じられ。
  延宝9年(1681)の建造といわれる福寿院客殿(重文)には、孔雀明王・愛染明王の2体が安置されている。孔雀明王は孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから、人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめるということから信仰されている。1977年に造営された小さい庭園だが、縁側に座ってボーッと眺めるのもよい。紅葉の季節には、塀越しに見える紅葉が、京都の坪庭的で味わいがあるだろう。また、京狩野3代目の「狩野永納」作の欄間の絵なども楽しめる。

 福寿院から川に沿って少し登ると、左手に観世音菩薩のご誓願にちなんだ33段の石段と、阿弥陀如来の誓願にちなんだ48段の石段があり、登りつめると本堂・鐘楼堂がある。また、山内2ヶ所に集めてある石仏群は、塔頭寺院跡に残っていた僧侶の供養塔・石仏であるという。寺の奥は「奈良奥山ハイキングコース」に繋がる細い山道になっている。

 この地は「錦の里」と呼ばれ、紅葉の名所としても知られている。また、境内を流れる菩提仙川の清流の清水を用いて、初めて清酒が醸造されたという伝承があり「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。
 本来、寺院での酒造りは禁止されているが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上する御酒として、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていた。荘園で造られた米から僧侶が醸造する酒を「僧坊酒」と呼ばれており、大量の「僧坊酒」を作る筆頭格の大寺院であった。

 当時の正暦寺では、仕込みを3回に分けて行う「三段仕込み」や麹と掛米の両方に白米を使用する「諸白(もろはく)造り」、酒母の原型である「菩提)造り」、さらには腐敗を防ぐための火入れ作業行うなど、近代醸造法の基礎となる酒造技術がすでに確立されていた。これらの酒造技術は室町時代を代表する革新的酒造法として、室町時代の古文書『御酒之日記』や江戸時代初期の『童蒙酒造記』にも記されている。

 当寺での酒造技術は高く評価され、天下第一として「南都諸白」(なんともろはく)に受け継がれ、清酒製法の祖として現在の清酒造りの原点となっているという。
 今は大規模な酒造りは行っておらず、毎年1月に酒母の仕込みが行われ、奈良県の清酒製造研究会に所属する蔵元11社がその酒母を持ち帰り、各々の蔵元がその酒母を用いて醸造した清酒を当寺福寿院で販売している。
 山の辺の道にある古刹で会席風の精進料理が味わえる。季節の山菜を中心に、自家栽培の米や野菜、外来芋のヤーコンや糸ナンキンなどを使った自家製の味が楽しめるので立ち寄ってみるとよいだろう。

 所在地:奈良市菩提山町157。
 交通:近鉄奈良駅から奈良交通バス米谷町行きで25分、柳茶屋下車、徒歩30分(11月は正暦寺行き直行バスあり)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする