松尾寺は矢田丘陵の南端近くにある松尾山の中腹に位置する山寺で、真言宗醍醐派の別格本山、山号は松尾山または補陀洛山(ふだらくさん)と称する。延宝4年(1676)に記された「松尾寺縁起」によると、天武天皇の皇子・舎人親王が42歳の厄除け祈願のため松尾山に参内した養老2年(718)2月初めの午の日、東の山に紫の雲たなびき(瑞雲)千手千眼観世音菩薩天降り出現したという松尾山縁起により、国連隆昌・国体安穏を祈祷する勅願寺として歴代皇室の叡信厚く、後水尾天皇も持仏の如意輪観音を下賜されたという。
中世以降は興福寺一乗院の支配下に属するとともに、法隆寺の別院とも称された(松尾寺は法隆寺の北方に位置し、法隆寺西院伽藍の背後から松尾山へ至る参詣道がある)。山門から108段の階段を登ると、眼下に奈良盆地が広がりまさに絶景である。
本尊は鎌倉時代の作といわれる千手観音立像(毎年11月3日のみ開扉)で、日本最古の日本最古の厄除霊場・厄除祈祷の名刹として信仰を集め、2月、3月の初午の日の縁日には多くの参詣者でにぎわう。
木造大黒天立像(重文)は鎌倉時代作。後世の福神としての大黒天ではなく、インドの武神マハーカーラの面影を残した厳しい表情の大黒天像で、日本3大黒のひとつとして知られる。
現存する本堂(重要文化財)(元金堂)は、建治3年(1277)に焼失した後、建武4年(1337)に再建された入母屋作りで、中世の大型仏堂の貴重な遺構で和様を基調とした比較的簡素な建築とされ、大仏様式も取りいれられた新和様と呼ばれている。
本瓦葺の三重塔(高さ約15m)は、本堂より一段高いところに建っている。現在の塔は明治21年(1888)の再建で、一部に古材が使用されている。さらに山道を登ると、松尾大明神を祀る松尾山神社がある。
七福神堂には、空海作の日本最古の大黒天像(像高98cm)が安置されている。インドから伝わったそのままの姿(容)だという。イカの剣先のような帽子を被り、貴族風の衣服を着ている。以前は彩色が施されていたようだが、全体的に黒ずんでいる。眉は吊り上がり、眉間に一本シワが入っている。この他、歓喜天、七福神等が安置されていたが、歓喜天は秘仏の為、厨子は閉じている。
またこの寺は薔薇の寺としても有名で、80種500株が植えられたバラ園がある。とくにツルバラは高さ3~4mにもなり、1株で3千もの花をつける木もあるという。この季節には「群生さつき」も見ごろになる。
所在地:奈良県大和郡山市山田町683。
交通:近鉄郡山駅から奈良交通バス泉原町下車徒歩約30分。
中世以降は興福寺一乗院の支配下に属するとともに、法隆寺の別院とも称された(松尾寺は法隆寺の北方に位置し、法隆寺西院伽藍の背後から松尾山へ至る参詣道がある)。山門から108段の階段を登ると、眼下に奈良盆地が広がりまさに絶景である。
本尊は鎌倉時代の作といわれる千手観音立像(毎年11月3日のみ開扉)で、日本最古の日本最古の厄除霊場・厄除祈祷の名刹として信仰を集め、2月、3月の初午の日の縁日には多くの参詣者でにぎわう。
木造大黒天立像(重文)は鎌倉時代作。後世の福神としての大黒天ではなく、インドの武神マハーカーラの面影を残した厳しい表情の大黒天像で、日本3大黒のひとつとして知られる。
現存する本堂(重要文化財)(元金堂)は、建治3年(1277)に焼失した後、建武4年(1337)に再建された入母屋作りで、中世の大型仏堂の貴重な遺構で和様を基調とした比較的簡素な建築とされ、大仏様式も取りいれられた新和様と呼ばれている。
本瓦葺の三重塔(高さ約15m)は、本堂より一段高いところに建っている。現在の塔は明治21年(1888)の再建で、一部に古材が使用されている。さらに山道を登ると、松尾大明神を祀る松尾山神社がある。
七福神堂には、空海作の日本最古の大黒天像(像高98cm)が安置されている。インドから伝わったそのままの姿(容)だという。イカの剣先のような帽子を被り、貴族風の衣服を着ている。以前は彩色が施されていたようだが、全体的に黒ずんでいる。眉は吊り上がり、眉間に一本シワが入っている。この他、歓喜天、七福神等が安置されていたが、歓喜天は秘仏の為、厨子は閉じている。
またこの寺は薔薇の寺としても有名で、80種500株が植えられたバラ園がある。とくにツルバラは高さ3~4mにもなり、1株で3千もの花をつける木もあるという。この季節には「群生さつき」も見ごろになる。
所在地:奈良県大和郡山市山田町683。
交通:近鉄郡山駅から奈良交通バス泉原町下車徒歩約30分。