「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「橘寺」(たちばなてら)

2010年03月06日 23時44分58秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 のどかな明日香の里を散策していると、田んぼの真中にぽつりと建つ寺が目に入る。
 日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求め、海を渡り10年後にある種を持ち帰った。しかし、その時はすでに天皇は亡くなっていた。
しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになった。そしてここに「橘の宮」という欽明天皇の別宮(離宮)が建てられ、後に寺に改め「橘寺」とした。聖徳太子生誕の地と伝えられている。

 橘寺は「仏頭山上宮皇院菩提寺」(ぶっとうざんじょうぐうおういんぼだいじ)ともいい、皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えたという。当時は東西八丁(870㍍)、南北六丁(650㍍)の寺地に金堂、講堂、五重塔を始め66棟もの堂舎が建ち並んだ大伽藍だったという。

 離宮を寺に改めたいきさつについて不思議な話が残されている。
 『推古14年(606)秋7月、太子35歳のとき天皇の命により、勝鬘経(しょうまんぎょう)というお経を3日間にわたり講讃した。その時、講話をたたえるかのように、庭には大きな蓮の花が1㍍も降り積り、南の山には千の仏頭が現れ光明を放ち、太子の冠からは日月星の光(三光)を放ったという。不思議なことが起こったので、天皇は驚かれて、この
地に寺を建てるよう太子に命じた。』とある。

 天武天皇9年(680)4月には尼房から失火して10房を焼失、また五重塔も平安時代後期久安4年(1148)5月15日の落雷で焼失、源平合戦のあった1185年には三重塔が再建されるも室町時代永正3年(1506)には談山神社のある多武峰の僧兵や民衆による放火などがあり、橘寺は当時の大寺院の面影を失ってしまった。その後ようやく江戸時代末期元治元年(1864)から明治13年(1880)にかけて太子殿初め現存する建物が再建されている。

 本堂(太子堂)も元治元年(1864)に再建されたもので、安置されている本尊は聖徳太子35歳の像(重要文化財)で太子の彫刻としては最も古い。お寺の話では、NHKの「私の好きな仏像」の中に選ばれていたという。収蔵庫には太子の生涯が屏風(八幅)に描かれてあるとのことだが、その内の第三幅、第四幅が展示してある。太子の11歳から20歳までの様子がうかがえる。残りの屏風は奈良国立博物館が所蔵し、特別展などで公開しているとのこと。観音堂には如意輪観音坐像が安置されている。

 明日香の里には亀石のような不思議な石が多く点在するが、ここにも飛鳥時代の不思議な石造仏がある。高さは約1㍍ほどで、背中合わせの2つの顔はそれぞれに人の心の善悪を象徴していて、左が善の顔、右が悪の顔だそうだ。人の心の二面性を表現しているといい「二面石」と称されている。 元々はここに無かったもので、近年ここに運ばれてきたとのこと。
 「橘の 寺の長屋に わが率寝(ゐね)し 童女放髪(うなゐはなり)は 髪あげつらむか」(万葉集作者未詳) 
(意味は、橘寺の長屋で私が一緒に寝たあの垂髪の少女は、もう成人して髪をあげたことだろうか。)

 所在地:奈良県高市郡明日香村大字橘532。
 交通:近鉄橿原神宮駅下車、岡寺前行バスで岡橋本下車徒歩3分。
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