モーゲーって知ってますか?
「モーニングゲート」というFMポートというラジオ局はやっていた
新潟限定(おそらく)のラジオ番組です。
いつも出勤時の車の中で聞いていました。
ラジオDJの遠藤麻里さんの、朝から発生している豪快なガハハ笑いが大好きでした。
内容は、失礼ながらも低俗で、そこがウリなんだ、と
遠藤さん自身も何度も番組内で言っていました。
(現在は別の局でラジオ番組をお持ちですが、平日の昼間なのでなかなか聞けません。残念)
その遠藤麻里さんは新潟県巻町(現・新潟市西浦区)出身であることを、
ご本人の著書の中で言っています。
巻町っていうと、原発建設計画があり、町が二分され、最終的には日本初の住民投票が行われ、
最終的にはその結果故に原発計画が頓挫したという事実も有名です。
その時のことを、リアルタイムで経験、というか過ごされていたそうで、
エッセイ集「自業自毒 平成とわた史」の中で書いています。
その立場は、お若い遠藤女史の、活動家でもDJでも(まだ)ない、
一市民としての心の機微が見えて、とてもいい文章だと思いました。
ああそうだよなあ、一市民って原発に対してこういう感覚じゃないかなあ、と思いました。
巨額でなくても、それなりのお金がちらつけば、そこにすがりたくもなるだろうし、
大多数がyesって言うならば、それに従おうという気にもなるんじゃないかな、と思います。
そういうことを思うと、原発っていうのは本当に
「人間」には扱えないものだと感じます。
技術的にというのではなく、感情的、精神的にも。
人間はまだ、そこまで利口ではない、と思います。
私の故郷、新潟県旧西蒲原郡巻町にはかつて、原発建設計画があった。
「原発反対!ヒアリング阻止!」と、大人のまねをして更新する子どもたちの姿や、
毎日のように郵便受けに入っていた原発に関する手書きのチラシ。
福島の報道に触れるにつれ次々と記憶がよみがえる。
私自身、20歳を過ぎて無職だった頃は、広報イベントの司会やビラ配りのアルバイトをした。
それは、建設を推進するグループ側の手伝いで、バイト料は驚くほど高かった。
平成8年、この町で、条例制定による全国初の住民投票が行われた。
それは原発建設の是非を問うもので、この時の投票率は88、29%。
うち、反対票を投じたのは6割超。
拘束力はないが、結果的にこの住民投票が、平成15年の建設計画撤回につながった。
人口3万人の小さな町を分断した原発建設計画は、昭和44年ににい旗日報が初めて報じた
スクープから34年目にして幕を閉じる。
国策である建設計画を、どうやって誰が止めたのだろう。
そして私自身は、当時何を考えていたのだろう。
いてもたってもいられなくなり、住民投票から15年後のこの年、当時の推進派、反対派それぞれに
話を聞きにいくことにした。
当時、巻は一貫して原発推進の町だった。
政治も経済も、原発推進を掲げる二つの保守勢力が中心で、
建設に異論を唱えるのはタブーだったという。
しかし口にこそ出さないものの、本音では「できればできてほしくない」と思う住民も
多くいるのが実情だった。
そんな中で、笹祝酒造の笹口孝明さんら、町の商店主たちが中心となって
「巻原発・住民投票を実行する会」を立ち上げる。
これは建設賛成でも反対でもなく、自分たちの町のことは住民自らが意見を表明しようという
全く新しい活動だった。
とはいえ、そんなことをすれば自身の商売が立ち行かなくなるということは明白だ。
決断した日はさすがに足の震えが止まらなかったと、ある店主は聞かせてくれた。
当時の町長笹口孝明さんは、住民投票の告示の日に、住民たちにこう呼びかけた。
「巻の町民は27年間考え続けてきました。
十分に判断できる知識と思いがみなさまにはあります。
十分な情報と時間の中で、それぞれが十分なプロセスを踏んできました。
住民投票の結果は何よりも優先します。
皆さんの判断で、この街の方向を決めてください」。
投票に足を運んだ人の中には、家族に「買い物に行ってくる」と嘘をついて出掛けてきたり、
帽子やマスクで正体が分からないようにして来た者もいた。
では、私はあの住民投票の頃、何を思い、何をしていたのだろう。
今振り返ると、原発ができてもできなくても、どちらでもよかったのだと思う。
人任せにしている気もなかった。
とにかく興味がなかったのだ。
今だって、そんな自分がいないわけではない。
世の中で起こっているさまざまな出来事より、今日の晩酌のつまみの方が大事だったりする。
それを笹口さんに正直に伝えると、こんな答えが返って来た。
「普段はそれでいいんです。任せておけばいい。
だけど、命や財産、子孫にまで渡る問題は人に任せるだけではダメです。
自分の考えで、意見を表明しないといけません」
当時のことを、友人と話す機会が先日あった。
彼女の祖父は原発推進派で、表立って活動していたので、当時は苦労が絶えなかった。
そんなある日、飲み会で彼女が、祖父をかばう発言をしたところ、私も含めて
皆黙るか、飲むか、うなずくだけだったが、たった1人だけ
「でも、俺は原発はできない方がいいと思う」と行ったという。
「私さ、あいつのことすごいなって思った。
すぐ別の話題に移ったけど、あの時もう少しみんなで話せばよかったかもね」と振り返った。
私の記憶からはすっぽり抜け落ちていたエピソードだったが、それは本当にその通りだと思った。
相手との意見の相違を恐れて、テーブルに乗せない、話し合おうとしない話題が
私には多々ある。
相手を傷つけてしまうかもしれないからと自分に言い訳しているが、実際は
面倒なことから逃げているに過ぎない。
だけど、そうやって避けていることは、生活に即した、
自分や相手の未来にとって、重要な事柄だったりもする。
相手の気持ちを考えると言えないということは、相手と自分との関係を信用していないということでもある。
正解など見つからなくていい、
いろんな人がいて、いろんな意見があるということ。
それをラジオでつながっている者同士が、互いに話し合える番組でありたいと思った。
建設計画撤回から15年以上たった現在もなお、私の故郷には、
原発の話しには触れてはいけない雰囲気がある。
だけど、私の聞き取りはまだ終わっていない。
今こそ語ってほしいと思う。
今こそ聞かねければと思うのだ。
「人任せな平成とわた史」より
当事者ならではの文章だと思いました。
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「モーニングゲート」というFMポートというラジオ局はやっていた
新潟限定(おそらく)のラジオ番組です。
いつも出勤時の車の中で聞いていました。
ラジオDJの遠藤麻里さんの、朝から発生している豪快なガハハ笑いが大好きでした。
内容は、失礼ながらも低俗で、そこがウリなんだ、と
遠藤さん自身も何度も番組内で言っていました。
(現在は別の局でラジオ番組をお持ちですが、平日の昼間なのでなかなか聞けません。残念)
その遠藤麻里さんは新潟県巻町(現・新潟市西浦区)出身であることを、
ご本人の著書の中で言っています。
巻町っていうと、原発建設計画があり、町が二分され、最終的には日本初の住民投票が行われ、
最終的にはその結果故に原発計画が頓挫したという事実も有名です。
その時のことを、リアルタイムで経験、というか過ごされていたそうで、
エッセイ集「自業自毒 平成とわた史」の中で書いています。
その立場は、お若い遠藤女史の、活動家でもDJでも(まだ)ない、
一市民としての心の機微が見えて、とてもいい文章だと思いました。
ああそうだよなあ、一市民って原発に対してこういう感覚じゃないかなあ、と思いました。
巨額でなくても、それなりのお金がちらつけば、そこにすがりたくもなるだろうし、
大多数がyesって言うならば、それに従おうという気にもなるんじゃないかな、と思います。
そういうことを思うと、原発っていうのは本当に
「人間」には扱えないものだと感じます。
技術的にというのではなく、感情的、精神的にも。
人間はまだ、そこまで利口ではない、と思います。
私の故郷、新潟県旧西蒲原郡巻町にはかつて、原発建設計画があった。
「原発反対!ヒアリング阻止!」と、大人のまねをして更新する子どもたちの姿や、
毎日のように郵便受けに入っていた原発に関する手書きのチラシ。
福島の報道に触れるにつれ次々と記憶がよみがえる。
私自身、20歳を過ぎて無職だった頃は、広報イベントの司会やビラ配りのアルバイトをした。
それは、建設を推進するグループ側の手伝いで、バイト料は驚くほど高かった。
平成8年、この町で、条例制定による全国初の住民投票が行われた。
それは原発建設の是非を問うもので、この時の投票率は88、29%。
うち、反対票を投じたのは6割超。
拘束力はないが、結果的にこの住民投票が、平成15年の建設計画撤回につながった。
人口3万人の小さな町を分断した原発建設計画は、昭和44年ににい旗日報が初めて報じた
スクープから34年目にして幕を閉じる。
国策である建設計画を、どうやって誰が止めたのだろう。
そして私自身は、当時何を考えていたのだろう。
いてもたってもいられなくなり、住民投票から15年後のこの年、当時の推進派、反対派それぞれに
話を聞きにいくことにした。
当時、巻は一貫して原発推進の町だった。
政治も経済も、原発推進を掲げる二つの保守勢力が中心で、
建設に異論を唱えるのはタブーだったという。
しかし口にこそ出さないものの、本音では「できればできてほしくない」と思う住民も
多くいるのが実情だった。
そんな中で、笹祝酒造の笹口孝明さんら、町の商店主たちが中心となって
「巻原発・住民投票を実行する会」を立ち上げる。
これは建設賛成でも反対でもなく、自分たちの町のことは住民自らが意見を表明しようという
全く新しい活動だった。
とはいえ、そんなことをすれば自身の商売が立ち行かなくなるということは明白だ。
決断した日はさすがに足の震えが止まらなかったと、ある店主は聞かせてくれた。
当時の町長笹口孝明さんは、住民投票の告示の日に、住民たちにこう呼びかけた。
「巻の町民は27年間考え続けてきました。
十分に判断できる知識と思いがみなさまにはあります。
十分な情報と時間の中で、それぞれが十分なプロセスを踏んできました。
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投票に足を運んだ人の中には、家族に「買い物に行ってくる」と嘘をついて出掛けてきたり、
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今振り返ると、原発ができてもできなくても、どちらでもよかったのだと思う。
人任せにしている気もなかった。
とにかく興味がなかったのだ。
今だって、そんな自分がいないわけではない。
世の中で起こっているさまざまな出来事より、今日の晩酌のつまみの方が大事だったりする。
それを笹口さんに正直に伝えると、こんな答えが返って来た。
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だけど、命や財産、子孫にまで渡る問題は人に任せるだけではダメです。
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そんなある日、飲み会で彼女が、祖父をかばう発言をしたところ、私も含めて
皆黙るか、飲むか、うなずくだけだったが、たった1人だけ
「でも、俺は原発はできない方がいいと思う」と行ったという。
「私さ、あいつのことすごいなって思った。
すぐ別の話題に移ったけど、あの時もう少しみんなで話せばよかったかもね」と振り返った。
私の記憶からはすっぽり抜け落ちていたエピソードだったが、それは本当にその通りだと思った。
相手との意見の相違を恐れて、テーブルに乗せない、話し合おうとしない話題が
私には多々ある。
相手を傷つけてしまうかもしれないからと自分に言い訳しているが、実際は
面倒なことから逃げているに過ぎない。
だけど、そうやって避けていることは、生活に即した、
自分や相手の未来にとって、重要な事柄だったりもする。
相手の気持ちを考えると言えないということは、相手と自分との関係を信用していないということでもある。
正解など見つからなくていい、
いろんな人がいて、いろんな意見があるということ。
それをラジオでつながっている者同士が、互いに話し合える番組でありたいと思った。
建設計画撤回から15年以上たった現在もなお、私の故郷には、
原発の話しには触れてはいけない雰囲気がある。
だけど、私の聞き取りはまだ終わっていない。
今こそ語ってほしいと思う。
今こそ聞かねければと思うのだ。
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