今日(9月16日)は「マッチの日」。
1948(昭和23)年の今日(9月16日)は、戦時中、配給制であったマッチの自由販売が認められた日である。
神戸でマッチ製造が始まったのは1877(明治10)年ごろ、当初は監獄内での製造であったという。ただし、マッチ製造には危険がともなうため、1881(明治14)年には監獄内での製造は中止されたそうだ。
フランスへの留学でマッチの製法を学んで明治7年に帰国した清水誠が、1875(明治8)年から、東京の仮工場で製造していたが、1878(明治11)年このマッチの製法を広く公開し、積極的な普及活動を行った結果、日本各地にマッチ生産を普及させた。当初は「失業士族救済のための士族授産事業」として、マッチ工場が設立されたようだ。兎に角、このころから、ようやく日本のマッチは産業としての出発点に立った。その発展は著しく、やがて、阪神地区の都市労働者家庭の婦女子を労働力とした安価なマッチが製造されるようになり、短期間の間に国産品の生産が輸入を上回り、さらに海外へ輸出され、日本の代表的な輸出品のひとつになった。そのようななか、国内最大のマッチ生産地として神戸が浮上してきたが、その背景には華僑の活躍があった。マッチの販売に、華僑のネットワークが活用され、神戸の華僑の手によって上海、香港など中国各地に輸出され、さらに東南アジアヘと広がっていった。これが成功したことにより、神戸は輸出向けのマッチの一大生産地となっていった。
第一次世界大戦以降、日本の輸出先でもマッチ生産が始められ,輸出量は激減し、逆にかねてより力のあったスウェーデンが日本の輸出市場を押え,日本国内にもマッチ工場二社を設立するなどにより、苦しい時代を迎えるが、1932(昭和7)年にはスウェーデン資本の日本撤退や為替安から輸出が立ち直り、マッチ産業も持ち直す。
しかし、その後、第二次大戦に参加していった日本では、生活必需品であったマッチも統制品として、1日4~5本の配給となり、戦時下では、粗悪品のため火付きが悪く、主婦は大いに苦労したといわれているが、私も子供の頃使ったマッチが、本当に火付きの悪かったのを覚えているよ。
戦後の、1948(昭和23)年9月15日、やっと、配給制だったマッチの自由販売が認められた。
戦後もマッチ産業のほとんどは小規模企業からなっていた。その後の科学の進歩により、マッチが余り使われなくなったことから、産業は衰退した。マッチ生産の中心地をなしていた神戸・長田周辺地域は、マッチ工業の衰退に呼応するようにゴム工業が盛んになり、今度は、日本を代表するゴム工業地帯に発展した。
このゴム工業地域一帯は、前の阪神淡路大震災の火災で、跡形もないほどに全焼してしまった。その後、復興はしたものの、ずいぶんと寂しい寂れた町になってしまったのが残念で、仕方がない。
マッチは、広告マッチなどを含め、その図柄が面白く、コレクターも多い。
(画像は、コレクションのマッチ・・・戦後頃のものか・・・?)
参考;
神戸市文書館
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/top.html
(社)日本燐寸工業会公式HP
http://www.match.or.jp/
燐寸博物館 マッチの歴史
http://www.tanaka-match.co.jp/museum/history/
私の別館HP「nostalgia神戸」神戸のこと色々のページの「No47、燐寸工業の神戸からゴム工業の神戸へ」
http://www.geocities.jp/yousan02/kobenokoto-010.htm
1948(昭和23)年の今日(9月16日)は、戦時中、配給制であったマッチの自由販売が認められた日である。
神戸でマッチ製造が始まったのは1877(明治10)年ごろ、当初は監獄内での製造であったという。ただし、マッチ製造には危険がともなうため、1881(明治14)年には監獄内での製造は中止されたそうだ。
フランスへの留学でマッチの製法を学んで明治7年に帰国した清水誠が、1875(明治8)年から、東京の仮工場で製造していたが、1878(明治11)年このマッチの製法を広く公開し、積極的な普及活動を行った結果、日本各地にマッチ生産を普及させた。当初は「失業士族救済のための士族授産事業」として、マッチ工場が設立されたようだ。兎に角、このころから、ようやく日本のマッチは産業としての出発点に立った。その発展は著しく、やがて、阪神地区の都市労働者家庭の婦女子を労働力とした安価なマッチが製造されるようになり、短期間の間に国産品の生産が輸入を上回り、さらに海外へ輸出され、日本の代表的な輸出品のひとつになった。そのようななか、国内最大のマッチ生産地として神戸が浮上してきたが、その背景には華僑の活躍があった。マッチの販売に、華僑のネットワークが活用され、神戸の華僑の手によって上海、香港など中国各地に輸出され、さらに東南アジアヘと広がっていった。これが成功したことにより、神戸は輸出向けのマッチの一大生産地となっていった。
第一次世界大戦以降、日本の輸出先でもマッチ生産が始められ,輸出量は激減し、逆にかねてより力のあったスウェーデンが日本の輸出市場を押え,日本国内にもマッチ工場二社を設立するなどにより、苦しい時代を迎えるが、1932(昭和7)年にはスウェーデン資本の日本撤退や為替安から輸出が立ち直り、マッチ産業も持ち直す。
しかし、その後、第二次大戦に参加していった日本では、生活必需品であったマッチも統制品として、1日4~5本の配給となり、戦時下では、粗悪品のため火付きが悪く、主婦は大いに苦労したといわれているが、私も子供の頃使ったマッチが、本当に火付きの悪かったのを覚えているよ。
戦後の、1948(昭和23)年9月15日、やっと、配給制だったマッチの自由販売が認められた。
戦後もマッチ産業のほとんどは小規模企業からなっていた。その後の科学の進歩により、マッチが余り使われなくなったことから、産業は衰退した。マッチ生産の中心地をなしていた神戸・長田周辺地域は、マッチ工業の衰退に呼応するようにゴム工業が盛んになり、今度は、日本を代表するゴム工業地帯に発展した。
このゴム工業地域一帯は、前の阪神淡路大震災の火災で、跡形もないほどに全焼してしまった。その後、復興はしたものの、ずいぶんと寂しい寂れた町になってしまったのが残念で、仕方がない。
マッチは、広告マッチなどを含め、その図柄が面白く、コレクターも多い。
(画像は、コレクションのマッチ・・・戦後頃のものか・・・?)
参考;
神戸市文書館
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/top.html
(社)日本燐寸工業会公式HP
http://www.match.or.jp/
燐寸博物館 マッチの歴史
http://www.tanaka-match.co.jp/museum/history/
私の別館HP「nostalgia神戸」神戸のこと色々のページの「No47、燐寸工業の神戸からゴム工業の神戸へ」
http://www.geocities.jp/yousan02/kobenokoto-010.htm