日本近代文学の森へ (58) 田山花袋『蒲団』 5 「ハイカラ」な女学生
2018.11.4
さて、件の女がやってきた。どうせブスに決まっているといいながら、できれば「見られる位の女」だったらなあという虫のいい時雄の思いは予想を裏切る形でかなえられた。美人だったのだ。
芳子が父母に許可(ゆるし)を得て、父に伴(つ)れられて、時雄の門を訪うたのは翌年の二月で、丁度時雄の三番目の男の児の生れた七夜の日であった。座敷の隣の室は細君の産褥で、細君は手伝に来ている姉から若い女門下生の美しい容色であることを聞いて少なからず懊悩した。姉もああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろうと心配した。時雄は芳子と父とを並べて、縷々(るる)として文学者の境遇と目的とを語り、女の結婚問題に就いて予(あらかじ)め父親の説を叩(たた)いた。
しかし、時期が悪すぎる。時雄の妻は、子どもを産んで間もない「お七夜」を迎えたばかり。こともあろうに、その産褥の床の隣室の座敷に、美人の芳子が通された。無神経にもほどがある。
「座敷の隣の室は細君の産褥で、細君は手伝に来ている姉から若い女門下生の美しい容色であることを聞いて少なからず懊悩した。」とあるけど、なんとも中途半端な書き方だ。
この小説は、三人称が使われていて、いちおう「客観的な視点」(いわゆる「神の視点」)で書かれているわけだが、実際には、ほとんどが「時雄」の視点で書かれているといっていい。というのも、登場人物の中で、その心の中が詳しく描かれるのは時雄だけだからだ。「細君」は、やってきたのが美人だって聞いて、「少なからず懊悩した」とだけ書かれていて、その内面はまったく書かれない。詳しくは書かれないけど「懊悩した」ことは「事実」として書かれているわけで、これが一人称の視点の小説だと、「細君は少なからず懊悩したらしい」とか「細君は少なからず懊悩したと後で姉から聞いた。」とか書かねばならない。「細君」の心中は時雄には分からないからだ。
三人称の小説は、その点、「細君」の心中に立ち入って描くことができるわけだから、それこそ微に入り細に入って細君の「懊悩」を書けるのだ。そしてそうしてこそ、脳天気な時雄と、その時雄に振り回される「細君」の苦悩がドラマチックにからみあい、読み所多い小説ともなるのだ。
逆に、「一人称の視点」を徹底するなら、「細君」の心中はそれこそ「闇」であると認識し、その言動とか表情を繊細に書くことで、「細君」の内面をおもんぱかることとなり、それはそれでまた読み所は多いわけだ。
それなのに、中途半端に「少なからず懊悩した」でおしまいでは、どうしようもない。「細君」のことなんか、完全に置いてけぼりである。姉も「心配」したとあるだけで、その心配の中身は「姉」なる人物の感想、「ああいう若い美しい女を弟子にしてどうする気だろう」というだけで、そっけない。
そんな細君や姉の懊悩やら心配やらには頓着することなく、時雄は、芳子とその父を前にトウトウと演説をぶつ。
「文学者の境遇と目的」をどう語ったのかはだいたい想像はつくけれど、「女の結婚問題に就いて予め父親の説を叩いた。」というのはなんのことだろう。「叩いた」というのだから、批判して否定したのだろうが、それじゃ、父親はどういう「説」を語ったのか。それを書かなきゃダメじゃないか。
あえて想像すれば、父親は、「この子は文学に携わろうとしてはいますが、結婚だけは、人並みに、しかるべき家のしかるべき男との縁組みをさせたいと存じます。」とか言ったのだろうか。それに対して時雄は、「お父さん、それは心得違いというものです。今は、時代がすっかり変わったのです。女も一人の人間として自立しなければなりません。ですから、結婚は、お嬢さんの意志が最優先すべきなのです。」てなことかしら。
芳子の家はどういう家だったかが、ここで問題となる。花袋は、順序よく書いている。
芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者(クリスチャン)、母は殊(こと)にすぐれた信者で、曽(かつ)ては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。
田舎とはいっても、その新見町の「豪家」だったのだ。しかも両親とも「厳格なる基督教信者」だ。母が学んだのが同志社だというから、プロテスタントの信者ということになる。しかし「母は殊にすぐれた信者で」というところが変。「すぐれた信者」という根拠が「同志社女学校に学んだ」ということになっていて、そんなことで信者の優劣が決まるなんて、通俗にすぎる。まあ、花袋は、あんまり基督教への興味も理解もなかったのだろう。
芳子は町の小学校を卒業するとすぐ、神戸に出て神戸の女学院に入り、其処でハイカラな女学校生活を送った。基督教の女学校は他の女学校に比して、文学に対して総て自由だ。その頃こそ「魔風恋風」や「金色夜叉」などを読んではならんとの規定も出ていたが、文部省で干渉しない以前は、教場でさえなくば何を読んでも差支(さしつかえ)なかった。学校に附属した教会、其処で祈祷の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をも知って、人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜するという群の仲間となった。母の膝下が恋しいとか、故郷が懐かしいとか言うことは、来た当座こそ切実に辛く感じもしたが、やがては全く忘れて、女学生の寄宿生活をこの上なく面白く思うようになった。旨味い南瓜を食べさせないと云っては、お鉢の飯に醤油を懸けて賄方(まかないかた)を酷(いじ)めたり、舎監のひねくれた老婦の顔色を見て、陰陽(かげひなた)に物を言ったりする女学生の群の中に入っていては、家庭に養われた少女のように、単純に物を見ることがどうして出来よう。美しいこと、理想を養うこと、虚栄心の高いこと──こういう傾向をいつとなしに受けて、芳子は明治の女学生の長所と短所とを遺憾なく備えていた。
家が金持ちだから、「神戸の女学院」に入ることができた。そして、そこで「ハイカラ」な女学生となったというのだ。
ここで興味深いのは、「基督教の女学校は他の女学校に比して、文学に対して総て自由だ。」という記述。基督教教育の中では、むしろ「文学」に対していは厳しいのかと思うと、「公立学校」の方がよほど厳しかったらしい。「文部省の干渉」というのは、どのくらいあったのだろうか。詳しく調べてみたい誘惑にかられる。少なくとも、この「文学に対して総て自由」の女学校でも、『魔風恋風』や『金色夜叉』は、読んではいかんという文部省からの指導が、私立学校のほうへもあったということになる。
明治の社会での道徳というものは、まだまだ江戸時代以来の古い道徳が色濃く残っていて、そこに新風を吹き込んだのは、西欧の文化を担う、キリスト教だったことがよく分かる。けれども、またその新風は新たな「道徳」として、人々を縛ることにもなったのだ。
『金色夜叉』はともかく、『魔風恋風』なんて聞いたことないので、調べてみると、小杉天外の小説で、当時は新聞に載って、やたらあたったらしい。新聞が売れすぎて、新聞を「増刷」するという珍しいことまで起きたと、wikiには書いてあった。かつては岩波文庫に入っていたが、長らく絶版だったのを、本田和子(ますこ)が『女学生の系譜』(1990)で論じたことで復活したらしい。岩波文庫での復活ではなくて、他社から出たようだ。当時の「ハイカラな女学生」の生態が描かれているらしく、これも読んでみたい誘惑にかられるが、時間がないので、やめておこう。きりがない。
「学校に附属した教会、其処で祈祷の尊いこと、クリスマスの晩の面白いこと、理想を養うということの味をも知って、人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜するという群の仲間となった。」というあたりが、当時の女学生の一般的な姿ということになるだろう。「人間の卑しいことを隠して美しいことを標榜する」というのが分かりにくいけど、これが当時のキリスト教的な理想主義的恋愛観、つまり「人間の卑しいこと=性」「美しいこと=精神的な恋愛」ということになるだろう。いわゆる「プラトニックな愛」である。
これこそが、当時の若い男女の恋愛を導いていたのであって、だからこそ、最初はキリスト教に入信した岩野泡鳴が、そこから離脱して、「心身合一」を唱え、性愛も含めた恋愛こそ本当だと叫んだのである。
さて、それなら、花袋の「恋愛観」はどうなっているのか。それは、今後の時雄の行動となって現れるに違いない。