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日本近代文学の森へ (60) 田山花袋『蒲団』 7 妻のガマン

2018-11-08 09:45:01 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (60) 田山花袋『蒲団』 7 妻のガマン

2018.11.8


 

 妻が産褥にあるにもかかわらず、女弟子を一つ屋根の下に住まわせるという、無神経きわまる時雄のわがままは、いっとき家の様相をまったく変えた。


 最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶(あで)やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、何等の対照! 産褥から出たばかりの細君を助けて、靴下を編む、襟巻を編む、着物を縫う、子供を遊ばせるという生々した態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供と共に細君がいぎたなく眠って了って、六畳の室に徒(いたずら)に明らかな洋燈(ランプ)も、却(かえ)って侘しさを増すの種であったが、今は如何に夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧に編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉! 賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

 

 何となく森鷗外の『舞姫』を思わせる文体だが、どこかで意識しているのだろうか。花袋は才能がないだけに勉強家だったようだから、研究したのかもしれない。(ちなみに『舞姫』は明治23年発表。『蒲団』は、明治40年発表である。)

 それにしても、まったく、時雄のなんという脳天気ぶりだろう。芳子は妻の手伝いをかいがいしくするけれど、それを妻はどんなに苦々しい思いで受け入れたことか。受け入れたくなんてなかったろう。「出ていきなさいよ!」って叫びたかったことだろう。それなのに、時雄ときたら、まるで新婚家庭を得たかのように浮かれまくっている。妻の思いをまったく無視すれば、こんな「楽園」のような家庭の図が描けるというものである。

 花袋は「平面描写」ということを唱え、主観を交えずに事実だけを客観的に描くことを小説の方法として主張した。けれども、この「家庭の幸福」の図は、まったく「客観的」ではない。どこまでいっても、「時雄がみた図」である。時雄の主観にとことん染まった光景である。見たいものしか見ず、都合の悪いことは見ない、という態度が生んだほとんど「幻想」である。

 「賑かな笑声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。」というけれど、その「笑声」に妻のものが交じっていたとでもいうのだろうか。たとえ交じっていたとしても、作り笑いでしかなかったろう。

 しかし、それはそれとして、女弟子の芳子は、いったいどういう気持ちで、時雄の家に一月も住んだのだろうか。19歳だからといっても、りっぱな大人の女だ。いくら文学への志が強かったとはいっても、産後間もない奥さんのいる家に一緒に住むことに何の抵抗もなかったのだろうか。靴下を編んだり、着物を縫ったりして尽くしてはいるが、同じ女として、奥さんがそれをどう思うか、まったく考えなかったというのだろうか。花袋は、そのことをまったく書かない。だから、ちっとも芳子という女が「立体的」にならない。まさか、それを「平面描写」だというわけではないだろうが。

 結局、妻がもたなかった。ガマンにも限界があったわけである。


 けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。従順なる家妻は敢てその事に不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色(きしょく)は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。
 時雄は種々(いろいろ)に煩悶した後、細君の姉の家──軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮している姉の家に寄寓させて、其処から麹町の某女塾に通学させることにした。


 「一月ならずして」というけど、「1ヶ月も住まわせたのかよ!」ってことだよなあ。「愛すべき女弟子をその家に置く事の不可能なのを覚った。」なんて遅すぎる。せめて三日で気づけってことだ。

 妻は、「従順」だから、「不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかった」というが、それがほんとうならずいぶん出来た妻である。けれども「それらしい様子」は、しょうっちゅう見せたに違いない。時雄が気づかなかっただけの話である。ぜんぜん気づかなかったというなら、ほんとに鈍感な男だが、実際には、気づいていても無視していたのだろう。まあ、そのうち、慣れるだろうぐらいに高をくくっていたのかもしれない。けれども、その妻も「その気色(きしょく)は次第に悪くなった」わけで、さすがの時雄も、対策を講じて、芳子を家から出さざるを得なかったわけである。

 で、芳子は何をしていたのか。時雄の妻の姉の家に住んだわけだが、そこから「某女塾」に通った。彼女の部屋の描画が、当時の文学志望の女学生の生態をよく伝えている。


 その寓していた家は麹町の土手三番町、甲武の電車の通る土手際で、芳子の書斎はその家での客座敷、八畳の一間、前に往来の頻繁な道路があって、がやがやと往来の人やら子供やらで喧しい。時雄の書斎にある西洋本箱を小さくしたような本箱が一閑張(いっかんばり)の机の傍にあって、その上には鏡と、紅皿と、白粉の罎と、今一つシュウソカリの入った大きな罎がある。これは神経過敏で、頭脳(あたま)が痛くって為方(しかた)が無い時に飲むのだという。本箱には紅葉全集、近松世話浄瑠璃、英語の教科書、ことに新しく買ったツルゲネーフ全集が際立って目に附く。で、未来の閨秀作家は学校から帰って来ると、机に向って文を書くというよりは、寧ろ多く手紙を書くので、男の友達も随分多い。男文字の手紙も随分来る。中にも高等師範の学生に一人、早稲田大学の学生に一人、それが時々遊びに来たことがあったそうだ。

 

 尾崎紅葉、近松の浄瑠璃、ツルゲーネフといったラインナップは、時雄の影響だろう。

 問題は「男文字の手紙」であった。





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