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日本近代文学の森へ (65) 田山花袋『蒲団』 12  「他者」の不在

2018-11-28 14:35:05 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (65) 田山花袋『蒲団』 12  「他者」の不在

2018.11.28


 

 芳子を連れ帰りに出かけた時雄は、市ヶ谷八幡の境内の「常夜燈」に、妻と出会ったころのことを思い出して涙する。あの時は、あんなに幸せだったのに、たった8年でこうも変わろうとは。あんなに可愛かった妻と暮らした楽しい日々がどうしてこんな荒涼たる生活に変わってしまったのだろう、と嘆く。



 時雄は我ながら時の力の恐ろしいのを痛切に胸に覚えた。けれどその胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。
「矛盾でもなんでも為方(しかた)がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」
 と時雄は胸の中に繰返した。


 時雄は「時の力の恐ろしさ」というが、「恐ろしい」のは「時の力」ではなくて、時雄の心ではなかろうか。誰だって新婚気分のまま8年を過ごすことはできない。結婚して1年もすれば(いや1ヶ月か)、相手が天使でもアイドルでもないことがわかる。衝突もすれば、愛想も尽かす。そうした小さないざこざやすれ違いを、そのままにしておけば、果てに待っているのは「荒涼たる生活」だろう。「時の力」のせいじゃない。みんな自分(あるいは相手も含めてもいい)のせいなのだ。それなのに、そういうことをまったく顧慮しようともしない時雄は、すべてを「時の力」という観念的で曖昧なもののせいにしてしまう。

 「時雄は我ながら時の力の恐ろしいのを痛切に胸に覚えた。」という表現は、文学的な表現に見えるけれど、「感傷的なウソ」でしかない。何にも時雄には分かっていない。だからこそ、その後に、「けれどその胸にある現在の事実は不思議にも何等の動揺をも受けなかった。」という驚くべき心のあり方が出て来るのだ。

 悪いのは「時」だ。「時間」だ。結婚してすぎた8年という時間だ。だとすれば、「その胸にある現在の事実」つまりは、芳子への恋慕は、何の反省も伴わずに、ごく「自然」なこととして揺るがない。「不思議にも何等の動揺をも受けなかった。」とあるが、「不思議」でもなんでもない。当然の帰結である。その当然の帰結は、「矛盾でもなんでも為方がない、その矛盾、その無節操、これが事実だから為方がない、事実! 事実!」という叫びとなる。

 「矛盾」でも「無節操」でも、それが「事実」なんだから「しかたがない」というのなら、人生、なんだっていいことになってしまう。「しかたがない」なら、「煩悶」もなかろう。さっさと、芳子と寝ればいいのである。それだけのことじゃないか。

 「矛盾」というが、それは「道徳観」と「自分の行為」の間に齟齬があることを示す。「無節操」というのは、「節操」という観念が心にあって、それを無視する、あるいは踏みにじることだ。けれども、すべての自らの行為や状況を「時の力」のせいにしてしまえば、「矛盾」も「無節操」も消えてなくなり、自分自身の責任はまったくないことになるわけだから、「事実」だけを受け入れて、それを生きればいいということになってしまう。

 ここで言われる「事実」とはいったい何なのだろう。この場合に限っていえば、「自分は芳子が好きでたまらない。」ということだ。それだけが「事実」だというのだ。そのことが、妻子ある身にとって果たして許されることなのかどうかとか、師弟関係において適切なことなのかどうかとか、芳子には恋人がいるにもかかわらず、こともあろうに師としての責任を負っている自分がそんな思いに動かされていいものだろうかとか、そういった様々な、人間としての生き方における規範あるいは道徳といったものよりも、「事実」が優先するのだということになる。けれども「事実」は、次から次へと出現する。今、芳子の夢中になっているのが「事実」なら、あした道で会った別の女にもう夢中になったとしても、それは新しい「事実」だ。「事実だからしかたがない」という言い草は、「無節操」ですらない。

 ここで言われる「事実」でもっとも重要なのは、それが「時雄にとっての事実」でしかないということだ。「時雄が芳子を好きでたまらない。」ということは、芳子にとっては、はなはだ迷惑な「事実」であり、妻にとっては、困ってしまう「事実」である。彼女らにとっては「しかたがない」じゃすまないのだ。「事実! 事実!」という叫びが、いわゆる「無理想・無解決」の自然主義宣言のように聞こえるのだが、それなら、確かに、日本の自然主義の出発点に『蒲団』がなってしまったのは不幸なことだった、という誰だかの意見(吉田精一だったか、平野謙だったか、他の誰だったか、調べきれていないが)は、なるほどもっともだと思うのである。

 改めて、人間の生き方について思いをはせてしまう。いったい、人間というものは、どう生きればいいのだろうか。時雄のように、とことん自分の欲望だけを軸にして、それを「事実」と置き換えて、「事実! 事実!」と叫んで生きていけばいいわけじゃない。本人はそれで本望だろうが、まわりがいい迷惑だ。やはり人間、なんらかの自分なりの「生きる軸」を持たねば、生きる意味がない。その「軸」をどこにおくか。いくらぶれても、「軸」があるのとないのでは雲泥の差が生まれる。

 時雄の問題は、つまりは「事実」が自己の中だけで完結してしまっていて、それが「他者」との関係の中で捉えられていないということだ。大事なのは「自分」じゃない。まして「自分の欲望」じゃない。大事なのは、「他者との関係における自己」あるいは「自己との関係における他者」なのだ。

 ぼくの母校でもあり、また長く勤務した学校でもある栄光学園の「校訓」は、「man for others」だ。訳せば「他者のための人間」となり、俗っぽくいえば「人のためになれ」という教えともなる。しかしぼくはこの言葉は、「もともと人間は、他者のために生きるものなのである。」という人間の定義なのだと思っている。他者のために生きるということは、別に一生を奉仕活動に費やすということではない。人間というものが、その人間らしさを発揮できるのは、他者との関係においてのみだ、ということなのだ。

 そのいちばん端的な例は、「赤ん坊をあやす母親(別に母親じゃなくてもいい、大人一般でも構わない。)」に見ることができる。母親は、単純に赤ん坊に笑いかける、それは「自分の欲望」とは無関係だ。赤ん坊がにっこり笑うとき、母親は無条件に幸せになる。人間というものは、そういうふうにできているのだ。
ここに、時雄を置いてみれば、どれだけ時雄の心のあり方が、「人間的でない」かが分かるだろう。

 時雄の「事実」の中に、実は「他者」たる芳子は存在していないのである。




 


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