日本近代文学の森へ (64) 田山花袋『蒲団』 11 「悲哀」の実相
2018.11.24
「本当に困って了う」の細君の声を背中に聞いて、時雄は、外に出る。芳子を預けている細君の姉の家に行こうというのである。
矢来、酒井の森、神楽坂、中根坂、左内坂、市ヶ谷八幡、といった地名を織り込んだ「道行き」は、当時の東京の面影を伝えて趣深い。『田舎教師』もそうだったが、この『蒲団』も、こうした情景描写は花袋の得意とするところで、読み所のひとつである。
夏の日はもう暮れ懸っていた。矢来の酒井の森には烏の声が喧しく聞える。どの家でも夕飯が済んで、門口に若い娘の白い顔も見える。ボールを投げている少年もある。官吏らしい鰌髭(どじょうひげ)の紳士が庇髪の若い細君を伴れて、神楽坂に散歩に出懸けるのにも幾組か邂逅(でっくわ)した。時雄は激昂した心と泥酔した身体とに烈しく漂わされて、四辺に見ゆるものが皆な別の世界のもののように思われた。両側の家も動くよう、地も脚の下に陥るよう、天も頭の上に蔽い冠(かぶ)さるように感じた。元からさ程強い酒量でないのに、無闇にぐいぐいと呷(あお)ったので、一時に酔が発したのであろう。ふと露西亜のの酒に酔って路傍に倒れて寝ているのを思い出した。そしてある友人と露西亜の人間はこれだから豪(えら)い、惑溺するなら飽まで惑溺せんければ駄目だと言ったことを思いだした。馬鹿な! 恋に師弟の別があって堪るものかと口へ出して言った。
中根坂を上って、士官学校の裏門から佐内坂の上まで来た頃は、日はもうとっぷりと暮れた。白地の浴衣がぞろぞろと通る。煙草屋の前に若い細君が出ている。氷屋の暖簾が涼しそうに夕風に靡く。時雄はこの夏の夜景を朧げに眼には見ながら、電信柱に突当って倒れそうにしたり、浅い溝に落ちて膝頭をついたり、職工体の男に、「酔漢奴(よっぱらいめ)! しっかり歩け!」と罵られたりした。急に自ら思いついたらしく、坂の上から右に折れて、市ヶ谷八幡の境内へと入った。境内には人の影もなく寂寞(ひっそり)としていた。大きい古い欅の樹と松の樹とが蔽い冠(かぶ)さって、左の隅に珊瑚樹の大きいのが繁っていた。処々の常夜燈はそろそろ光を放ち始めた。時雄はいかにしても苦しいので、突如(いきなり)その珊瑚樹の蔭に身を躱(かく)して、その根本の地上に身を横えた。興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。
初めて恋するような熱烈な情は無論なかった。盲目にその運命に従うと謂うよりは、寧(むし)ろ冷かにその運命を批判した。熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが絡(よ)り合せた糸のように固く結び着けられて、一種異様の心の状態を呈した。
悲しい、実に痛切に悲しい。この悲哀は華やかな青春の悲哀でもなく、単に男女の恋の上の悲哀でもなく、人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀だ。行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠(わだかま)れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情ないものはない。
汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。
福田恆存の言う、花袋の「ツルゲーネフの登場人物になりたがっているという念願そのものの切実さ」をここに見ることができる。一升酒をくらって、路上に倒れこみながら、「露西亜の」を思い出す。あれに比べたら自分などは「惑溺」の度合いが足りないと時雄は思うのである。
前回に引用したとおり、時雄は「性として惑溺することが出来ぬ或る一種の力」を持っているのである。いや、「持っている」と思い込んでいるのである。ぼくみたいな1合酒で酔える人間からすれば、一升飲んで路上に倒れるなんて、十分すぎるほど「惑溺」してると思うのだが、時雄の「基準」は露西亜にあるのだからたまらない。アルコール分解酵素が違うのだから、比較したって始まらない。
いや、酒だけのことを言っているのではない。花袋にしても、泡鳴にしても、標準的な日本人からすれば、そうとう「惑溺」するタイプだろうけど、欧米の小説を読んでいると、呆気にとられるほど「惑溺」もし、常軌を逸してしまうのに驚く。スタンダールの小説など、なにかというと「決闘」となってしまう血の気の多い展開に、ついて行けない思いがした。信じられないほどの自我の強さ、それゆえの自分の名誉を傷つけられたときの激しい怒り、それらは、やっぱりぼくのような軟弱な日本人には理解を絶していた。
明治の若者が、その初々しい感性で、ヨーロッパに憧れたこと自体は、どんなに感傷的であっても、馬鹿にしてはいけない、尊重しなければいけないと、福田恆存は言うのだが、また一方で、その「ういういしさ」だけでは文学はダメなのだとも言っている。
この福田の言い分は、この『蒲団』の部分を読むと、なるほどと深く納得されるのだ。
露西亜文学の中の酔っ払いは、ツルゲーネフであれ、ドストエフスキーであれ、もっと「精神的な深さ」とか「闇」を抱えていたように思う。「聖なる酔っ払い」的なところがある。けれども、ここでの時雄に、そんなものはない。ただ、嫉妬に狂っているだけの酔っ払いだ。
「興奮した心の状態、奔放な情と悲哀の快感とは、極端までその力を発展して、一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した。」と花袋は書くけれど、どこを読んでも「冷淡に自己の状態を客観した」部分は見当たらない。ただただ興奮しているだけ。
そして、くだらぬ嫉妬の念を、誇大妄想的に拡大し、精神的な深みに引きあげようとする。自分の悲哀は、単なる恋の悲哀じゃなくて、「人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀」だというのだが、いったいそれって何? 花袋は「それ」が何なのか知らないし、ほんとうは興味もないのだというのは福田恆存の言い分である。だから、そんなのはみんな「感傷的なウソ」だというのだ。
ぼくもほぼ同意である。「人生の最奥に秘んでいるある大きな悲哀」と言ってはみたものの、その内実がどういうものか分からないから、「行く水の流、咲く花の凋落、この自然の底に蟠(わだかま)れる抵抗すべからざる力に触れては、人間ほど儚い情ないものはない。」なんて、『方丈記』の焼き直しみたいな陳腐な感慨でごまかすしかない。いくら「汪然として涙は時雄の鬚面を伝った。」などと気どってみせたところでダメだ。そこの浅さはみえみえである。
精神的な深みに欠ける人間が、精神的な深みを持った人間に憧れるのは結構だが、憧れたからといって、それがそんな簡単に実現するわけじゃない。そのことを知らずに、ただ憧れているだけなのに、あたかも自分こそは精神の深みを持った人間になったのだと思い込むことほど滑稽なことはない。花袋は、その滑稽さをものの見事に表現したのだが、そのことに花袋が自覚的であったかは、ぼくにはよく分からない。